「弱者の崖」とあのひととわたし



ルサンチマンと上手に付き合おうね、という話。


狭量なので、今までに数え切れないほどの苦手なひとに出会ってきた。

そういうとき、大概はむこうもこっちも適当に接触を避けて、なんとなく日々を過ごすことになる。だれにでもそういう経験はあると思う。ありますよね?
幸運なことにわたしは、他人から本物の悪意をむけられつづけたり、集団から完全に「はば」にされたり、そういうのからはうまいこと逃げきってきたのだけれど(そういう三十六計な人生がよかったのか悪かったのか、それはわからない)しかしそんな中でも、どうしても我慢できない相手というのもいる。嫌いなひとと同じ空間にいなければならなくなったとき、わたしはいつも、崖について考える。

崖は、わたしの想像の山中にある。
葉の落ちかけた枝が絡み合い霧がかって薄暗い、そんな陰気臭い山。
その山にある崖でわたしの嫌いな人は(なぜか)ついうっかり足を踏みはずす。両手をはなせば千尋の谷へ真っ逆さまだ。助けをもとめる声は虚空に吸いこまれ、誰の耳にも届きそうにない。
そこへ、猫の毛のひっついたパーカーを着たわたしが(なぜか)通りがかり、崖から落ちかかっているそのひとを偶然見つけてしまう。

さて、ここからが問題です。
これからわたしはこの状況に対し、どういうムーブを取るでしょうか?

わたしには今、そのひとの生殺与奪権が握られている。
わたしはそのひとを助け上げることもできるし(現実には腕力がないので崖の上に引き上げられない、とか言わない)見殺しにすることだってできる。
なんなら、そのひとの指を一本一本丁寧に引き剥がして重力に任せることも可能だ。なんせ誰もいない山中の千尋の谷だ。未必の故意だろうがなんだろうが関係ねぇ。完全犯罪の完成である。

こう考えておくと、心に余裕がうまれて大変よい。相手が腹の立つことをするたびに、「今のは見殺し3回分ですな」とか「顔面から蹴り落としますよ」とか、とにかく自分と相手との関係を、シニカルに余裕をもって眺めることができる。いつだってあなたを窮地に追い込むことができるんですよ、とまるで自分が優位に立ったように思い込むことができる。

この薄暗い思いつきは自分オリジナルのもので、ストレス解消にはぴったりだからご自由にどうぞ……というつもりで記事にしたのだが、最近この「弱者の崖」とも呼ぶべきものはわたしの中だけでなく、意識の差はあれ、たくさんのひとの中に存在しているのではないかと思うようになってきた。

ネットにつながってると、弱者の崖は可視化され、目の前に現れることも多い。「自分は現実世界では虐げられてる側だから、ネットでくらいちょっと言ってやったってかまわねぇ」そう考えてなにか載せているひとは結構多い。それがおいしく調理されて(あるいは生のままの大迫力でもって)おればいいけれど、なかなかそうもいかず、生焼けでうぇぇ……となってしまうものも多い。

弱者の崖はあらゆるところに形を変えて存在し、ブラックホールのようにわたしたちのルサンチマンを飲みこんでいる。

その谷底はきっと世界のどこかでつながっていて、奥底ではきっと突き落とされた人がどろどろのひとの形をした悪意となって腐臭をただよわせているのだろう。

「弱者の崖」は他人に見せてはいけない。他人の谷底とつなげてはいけない。なぜなら他のだれかが入ってきたら完全犯罪が成り立たなくなるからだ。他人が蹴り殺し損ねたあのひとが、今に崖から這い上がってきて襲いかかってくることだって考えられる。自分が蹴り落とされることだってある。

ほんとは崖なんか使わず、一発ひっぱたけたらそれが一番なんだけど、ね。


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