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わかるということ。日本語と英語の間から

英語の勉強をしていると、この文章が理解できん。となることは結構ある。それも一つ一つ文の構造を分解しながら理解しようとして理解できるのだけど、同じような文章が出てきたときにまた同じように躓く。

文構造を分解してもわからない場合はGoogle翻訳にかけて、日本語として理解しようとする。大抵はこれで理解できる。

しかし、ここでふと疑問に思う。英語で書かれた文章を日本語で読んで本当に理解したと言えるのだろうか?また、日本語になって、自分との親和性が高まったから理解できたと錯覚しただけで、本当は正しく理解できていないのではないか?

つまり、対象に対する理解は同じレベルだけど、周辺知識(周りの単語等)の理解が圧倒的に違いすぎるから理解が進んだだけで、文化的な差分を埋められていない以上、本質的な理解には至っていないのではないか、ということだ。

本質的な理解に至るためには、英語で書かれたものは英語で理解して、単語とかも英語で認識するほうがよりリアルに近いんだろうなと思うが、まだそのレベルには至っていない。今後英語を勉強する上では英語圏の文化を記述したような文章も読みすすめるべきなんだと思う。

このことから鑑みると、一般的にわかるということは、対象物を理解するだけではなくて、対象物の周辺の背景まで含めて理解しないと厚みが出ないということ。そうやって、対象物→周辺物と広げていくと知の広がりが無限にあるということ。

過去の人生を振り返ったときにわかっていたことはどのくらいあったんだろうか、と考えると、自分が知っていることなんて、社会全体の知の1京分の1もなくて、あまりにも小さいことに気づく。とはいえ、この知のマップは人類が過去累々と積み重ねてきたからできているわけであって、社会の成員として存在する以上は知のマップを広げたい、という意志は多少なりともあるわけで。

そうしたときに矮小な自分を謙虚に努力して拡張し、わかるを広げ続けることが生きる意味の一面を担うのではないか、などと思った。

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