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饒舌な神の視点 (三人称について思うこと)

三浦しをんさんの「小説の書き方講座」、とても楽しく読んでいます。しをんさんの親しみやすい文章で、小説を書く上でのノウハウや大切なことがたくさん書かれています。読んだだけで書ける気になる恐ろしい本です。少なくとも創作意欲は湧きます。

小説を書く上での基本、「人称」についても具体的に章が分けられていました。

一人称と三人称については区別できてましたが、三人称にも「単一視点」と「多視点」があるのには私はあまり気づいていませんでした。言われてみればそうですね。特に三人称多視点は「神の視点」と呼ばれていて、いろんな登場人物の視点から描かれていくので、「神」が上から俯瞰しているように思えます。

で、三浦さんは「三人称でも「誰が喋ってるねん」と思う」みたいな趣旨のことを書いていて(しをんさんは関西人じゃないから私の要約です)、私はそう思ったことはあまりないなあ、と思ったりもしました。

私がよく読む歴史小説はだいたい三人称多視点、「神」視点が多い気がします。さまざまな人が歴史の変革には絡まってきますから、一番描くのに適しているんでしょうね。幕末だったら、新撰組も薩摩長州も、坂本龍馬も、会津も、いろいろ動きがわかった方が世界が拡がりますし。

司馬遼太郎さんの作品なんてまさにそうですよね。登場人物が出てきてセリフを言って去っていった後とかに、「彼は明治□年に伯爵、○○年没。」とか普通に書かれたりします。未来を予言する神のようです。まあ、司馬作品では作者が前面に出て来られるので、あまりそういう感覚はないですが、言われてみれば「神」だなあと。

そういうことを思っていて、いや、最近そうじゃないのを読んだぞ、ともやもやしはじめました。一人称でもあり、三人称「神」視点でもある、そんな、普通だったら実現不可能な小説があった、と。

これでした。町田康「ギケイキ」(先日からこの本は推しまくってますが)

「私」視点で全編描かれています。主人公は源義経。

ただし、「私」は自分が生きていたより千年先にいます。そこから、自分の物語を語る形式をとっています。

なので、「私と出会う前の弁慶は・・・」みたいな話を突然はじめて、自分は一切出て来ないまま、弁慶の物語が始まります。そして橋の上で弁慶と出会うのが「私」なのだと突然また自分が現れます。三人称と一人称が変幻自在ですが、全く違和感がないんです。

さらに効果的だなと思うのが、「私」が千年先にいることです。例えば弁慶がいろいろやったことを「今でいうならツイッターで拡散する感じ」とか普通に書いてるけど違和感がないうえ、「なるほどー!」ってなる。さらに当時の「私」が例えば「神仏にすがってるんだけど、当時としては神仏にすがるのは普通で、実際的なご利益もあった」みたいな、当時の人の感覚を、今の人の感覚で説明できて、これもすごくリアリティを生んでいるんですよね。

千年先から語るという超非現実的な設定から生まれる、その時代のリアリティ。

こんな語り方もあるのかああ!と、「小説の書き方講座」を読んでから思うと、うっわ、すっごいな、ってなりました。

同じく町田さんの「告白」なんかは、あれは三人称の単一視点だったと記憶していますけど、めちゃくちゃ饒舌に語るのは、あれは主人公じゃなくて、町田さんだな。ってなります。饒舌な神の視点。読み終わる頃には凄まじい虚無感とともに、頭の中全部町田さんになりましたものね。すごい作品でした。





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