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井上ひさし作『夢の泪』を観劇して、長い感想を書きました。

井上ひさし生誕90周年記念として、紀伊国屋サザンシアターで上演されているこまつ座の公演『夢の泪』を観劇してきました。

夢の泪は、東京裁判三部作と呼ばれている作品の一つです。


僕は井上ひさし作品のファンを公言していましたが、実はその偉大な作品群を網羅しているわけではありません。

東京裁判三部作、全部観たことありませんでした。


というわけで、今回、その一本を観ることができたわけです。


僕が出会った最初の井上作品は、子供の時にテレビで観ていた『ひょっこりひょうたん島』でした。

この人形劇が観たくて、小学校から走って帰ったものでした。

人形たちが歌って踊る奇想天外な物語に、毎日心を踊らせました。


ファンとか言ってるわりに、実は観ていたのは、井上作品の初期の子ども向けの作品群ばかりだったということに、ウィキをみて気づかされました。

井上さんは、実写版の『忍者ハットリくん』や『ピュンピュン丸』『ネコジャラ市の11人』なども執筆されていました。

これらももちろん大好きでした。


しかし小説もほとんど読んでなくて、舞台も十本ほど観てるだけでした。

これではファンとは呼べないです。

井上先生、もうしわけありません。


井上さんが亡くなったのは、2010年の4月。75歳没。

存命ならば、今年90歳。

ということは僕が夢中になって観ていた子ども向け作品群は、井上さんが二十代から三十代で書いていたものになります。


今回観劇した『夢の泪』は、ひょっこりひょうたん島スタイルの音楽劇仕立て。

軽妙な音楽と歌で物語を進めていくわけです。

音楽を担当しているのは、作曲家の宇野誠一郎さん。

ひょっこりひょうたん島の音楽も、この宇野さんでした。

それもふくめての、ひょうたん島スタイルなわけですね。

この宇野さんも、2011年に鬼籍に入られています。


自分に多大な影響を与えてくれた作品たちのクリエイターのみなさんが、もうこの世にはいらっしゃらないというのは、なんだか寂しい気持ちになりますが、偉大な作品群は永遠です。


前置きが長くなってしまいましたが、

『夢の泪』の感想です。


お昼一時開演だったので、直前に昼御飯を食べたのですが、そのせいかもしれませんけど、眠気に襲われてしまい、途中で何回かコックリをやってしまいました。

けっしてつまらなかったわけではないんです。

血糖値の上昇に肉体が勝てなかっただけです。


面白くないなんてこと、あるわけありません。

井上ひさしの脚本に、宇野誠一郎の楽曲で、歌もふんだんに挿入されてるんですから。

しかも物語は東京裁判で松岡洋右の弁護をすることになった弁護士とその家族を描いているんですから。


脚本の構造は、コメディです。

浮気癖がひどい弁護士の男が、同じく優秀な女性弁護士である奥さんに三行半を突きつけられていて、それでも彼は別れたくなくておろおろしていて、弁護士の仕事もあんまりなくて、悲惨な状況です。

これが主人公。

そんな主人公のところに、奥さんが東京裁判の弁護人補佐に専任されたという知らせが来ます。


そこから東京裁判という歴史が、観客である僕たちの前に突きつけられてくるわけです。


感想を書こうとしましたが、途中でコックリやってしまった作品の感想を言うなんてことはできそうもないということに気づいてしまいました。

失礼極まりないですからね。

というわけで、いったん感想を書くのは遠慮します。


せめて戯曲を読んで、勉強させてもらおうという気持ちになったので、図書館に行って『井上ひさし全芝居 その七』(新潮社)を借りて来くることにしました。

この戯曲集には井上さんの11本の戯曲が掲載されています。


襟を正して、読ませていただきました。

戯曲というと慣れないと読み辛いものですが、井上さんのはそうではありません。

読むだけでも、充分面白いのです。


ここからは、戯曲分析になります。

分析というか、戯曲を読んだ感想ですね。

井上ひさしを尊敬する脚本家が、どういう視点で戯曲を読んでいくかのメモです。


かなり長いメモになると思いますし、芝居を観てなかったり、戯曲を読んでない人にはほとんど興味がないかもしれないですが、ここからは自分のために書きます。



タイトル

『夢の泪』


とき、敗戦のあくる年の四月。


ところ、焼き払われた東京の街頭、そして焼け残った新橋のびる、その他で。


ひと

伊藤菊治(46)弁護士

伊藤秋子(38)弁護士

伊藤永子(19)明子の娘

竹上玲吉(69)弁護士

田中 正(28)法律事務所事務員・夜学生

ナンシー岡本(29)将校クラブ専属歌手

チェリー富士山(29)将校クラブ専属歌手

片岡 健(19)新橋片岡組組長代理で学生

ビル小笠原(33)米陸軍法務大尉



○感想1

 登場人物の名前というものには、作家の想いがこめられています。

 脚本を書くときに、一番先にイメージできるのは、この名前だからです。


 『伊藤』という名字をつけたのには、どういう理由があるのでしょうか?

 『菊治』という名前をつけたのには、どういう理由があるのか?


 そんなことを推理するのも、人物を理解するのに役立ちます。

 脚本家は、それぞれの名前についても、その人物の性格などを現す名前をつけるものです。

 それぞれの名前にこめられたイメージを推理するだけでも、楽しくなります。


 ちなみに終戦の翌年に46歳ということは、僕の祖父とほぼ同じです。祖父の名前は菊次でした。祖母は菊代。

 この年代の人には、菊という文字を名前につけた人が多かったのかもしれません。そういう時代だったのです。

 僕の祖父は、海軍軍人で第一次大戦にも軍艦に乗ってヨーロッパまで行ったという人で、大東亜戦争では終戦を上海で迎えて、帰ってくる途中の舟で病気になり、帰国してすぐに亡くなりました。戦争で亡くなったも同然です。享年、46歳。この物語の菊治と同い年です。



一幕 

一場


オープニングの歌1

『空の月だけが明るい東京』


歌の中で、時代と登場人物の紹介。


○感想2

 オープニングというのは、いわゆる『つかみ』です。

 観客を一気に物語の世界に引き込もうという戯作者のもくろみがあります。

 テーマソング的な意味合いもあると思います。テレビ番組をたくさん書いていた井上さんらしいです。



二場

法律事務所の仕事


歌2

『わたし判らない』

永子のソロナンバー。



○感想3

 脚本家は主人公をできるだけ早く観客に紹介したいと思っています。

 物語の最初に登場して、いきなりソロナンバーを歌うとしたら、この永子こそが主役だと作者が言っていると思って間違いないでしょう。

 19歳の汚れないこの少女と一緒にこの物語の旅路に出てくださいと観客に言っているのです。


 「わたし判らない」と彼女は歌います。

 判らない彼女が、何を判っていくのかが、この物語の核心になるのだろうという提示でしょう。

 彼女の判らないものは……大人の生き方。



父親の弁護士菊治が、見習いの田中正を連れて帰ってくる。

法律事務所は欲の掃き溜めだと言う菊治。

菊治は、もう一人の主人公です。

ここで、この物語には、二人の主人公がいるということが提示されます。

菊治と永子の二人の主人公の物語なのです。(永子は、観客の視点となる存在でもあります)


歌3

『法律事務所の仕事』

菊治のソロと永子と田中。



○感想4

 脚本家は物語の冒頭では、主な登場人物たちの紹介と同時に、世界観や状況などを手際よく観客に伝えようとします。

 テーマの提示なども、ここではやります。

 それをセットアップと呼んだりします。

 井上さんも、歌と軽妙なやりとりで、それをしようとしています。

 主人公の永子と正とのやりとりのなかで、永子が8歳の時に母親が再婚したことで親子になったことが語られます。永子の実父は、戦地で亡くなったということも。



ここで永子と田中が二人で歌うシーンが挿入されます。『法律事務所の仕事』



○感想5

 ここで二人のデュエットを入れているということは、この二人の関係性をここで見せたいと作者が思っているということだと思います。

 永子と田中の関係性を。

 可憐な少女である永子に対して、田中がどういう気持ちを抱くのか?

 脚本ではそこに関しては書かれていませんが、芝居としてはここで田中が永子に対して、特別な感情(恋心)を抱くというふうに見せていきたいと作者は狙っていたのでしょう。

 見た芝居では、あまりそういうところは見えませんでしたけど。そういう演出にしても良かったのかと思いました。



ここにナンシー岡本とチェリー富士山が喧嘩しながら入ってきます。

二人は持ち歌が同じ曲だったいうことで揉めています。二人は同じ第一ホテルの専属歌手だ。

二人の口げんかはファニーで漫才みたいです。

二人は、田中を弁護士だと勘違いして、手付金代わりに酒とハムを渡したりします。



○感想6

 ナンシーとチェリーがやってくるのは、物語としては、展開部分です。

 脚本家は、ここにサブストーリーを入れてます。(サブプロットともいいます)

 サブストーリーとは、メインのストーリー(メインプロット)と一緒に進んでいく、もう一つの物語です。

 この二人の争いがどうなるのかというのと、メインのストーリーが、ラストでは一つになっていくわけです。


 この二人は、コメディリリーフ的な役割も担っています。

 シリアスな展開なときでも、この人たちが出てくると観客は笑ってホッとするというわけです。

 なのでこの二人のキャスティングというのは、とても大事になります。

 お客を笑わせることのできる俳優さんをおかねばならないのです。



歌4

『好きなものはと聞かれたら』『夢の泪』

菊治、ナンシー、チェリー、正、永子。


みんなで宴会でもするような楽曲。

前半一番の盛り上がり所です。

歌の途中で、学生の片岡健が飛びこんできて、永子に手紙を渡して去って行きます。


そこに菊治の妻で弁護士の秋子が帰ってきます。

ナンシーとチェリーの色っぽさに、少し嫉妬したりする秋子。

菊治との関係は、好き合っているけど、別れを考えている痴話げんか状態。

(この関係はどうなっていくのか?)

秋子は、東京裁判の弁護士を任じられたと言います。

大事件です。

物語が大きく動き出します。



○感想7

 メインプロットが大きく動き出します。

 東京裁判の弁護士補佐に任命されてしまった秋子。自分の妻が大出世してしまった浮気亭主、どうする!?

 というわけです。

 脚本作法的には、プロットポイントです。

 ここまでにセットアップは完成しています。

 それぞれの状況や目的が提示され、物語は前に進み出します。

 こうやって分析していくと、井上先生は見事に王道の脚本づくりをしているのだということがわかります。


 東京裁判。

 戦後の日本にとっては、まさにエポック。

 しかし戦争を知らない世代には、その意味さえも知らない人たちが多くいます。今の若者たちはなおさらです。

 だからこそ東京裁判というものを芝居で取り上げることによって、今自分たちが生きている日本という国を見つめなおしましょうと井上先生は言いたかったのではないでしょうか。

 井上さんたち、戦中世代の人にとっては、戦争、敗戦というのは大人たちがしでかしたことだと思えたのでしょう。

 ここまで書いていて、永子19歳というのは、ほぼ井上さんの年齢であるということに気づきました。(実際はもう少し下ですけど)

 実際の戦後を体感していた井上さんは、『青葉繁れる』の世界に住みながら、大きく動いている日本を感じていたのですね。

 ちなみに『青葉繁れる』は井上さんがお書きになった青春小説で、仙台一高に通う高校生を主人公にして活き活きとした青春群像が描かれています。



3場 弁論練習


竹上老弁護士の登場。

居眠りしながらナンシーとチェリーを調停中。


歌5 『丘の上の桜の木あるいは丘の桜』

ナンシーとチェリーが唄う。



○感想8

 どっちの歌手が本物の所有者かというのを争っている『歌』のテーマは『桜』だ。

 桜と言えば、日本を象徴するものに他ならない。

 作者(井上さん)は、意図的にこれを桜の歌にしたのだろうと思う。

 同じ日本を取り合っている二つの存在ということのメタファーとして。

 それはつまりアメリカ人と日本人ということなのだろう。

 歌の内容は、戦地にいる男が、田舎に残してきた妻子を想う切ない内容。



この歌の直後に、老弁護士と秋子の想定裁判がいきなり始まる。

この中で、被告である元外務大臣の松岡洋右のことも説明される。

ナンシーとチェリーも加わって、戦前の東京の様子なども語られる。

そして秋子と竹上との会話の中で、戦争に突入するまえの日本人についての言及があります。

『日本は世界情勢に無知だった』と。



○感想9

 戦前の世界情勢などを簡潔に観客に伝えるのに、裁判での答弁を使うというテクニックを脚本家は使っています。

 説明を説明じゃなく見せるというのも、脚本技術の一つです。

 本当に脚本の技術を知り尽くしている作家の手口だと想います。

 ただしやはり説明にはかわりないので、ここがちょっと退屈に感じられるのはしかたのないことかもしれません。

 戦前から戦中にかけての近代日本史に詳しくないと、ここで語られる日本と世界の情勢は、すんなり頭に入ってきませんから。

 老弁護士の竹上という登場人物を出したのも、過去の事情を良く知る者を置くことで、彼にそれを説明させることができるからにほかなりません。

 作者の意図はわかるのですが、この竹上という人物が説明のためだけに、ここに持ってこられたように感じました。コメディリリーフとしても、うまく使えているわけではないし。

 井上さんほどの人だから、この竹上とメインの登場人物たちとの関係性を深めることはできたはずなんですが、それをしなかったのは、なぜなんだろうと疑問に思いました。


 ここでふと思ったのですが、この『竹上』という名前は、もしかしたら作者自信の『井上』に通じているのではないかと。

 井上さんは、遊び心で、自分の分身をこの舞台上にあげたのかもしれないと。

 永子が当時の自分の分身だとしたら、この竹上は、いまの自分の分身として。

 玲吉という名前にも、なにか込められているような気もします。そこまでは、僕は推理できていませんけど。



永子が新橋食堂で食事を終えて帰ってきます。

秋子、竹上、田中たちははけます。


歌8

『わたし判らない』のリプライ。

永子は、歌の中で五年前から牛肉を食べてないと言います。


そこに健がやってきて、新橋食堂は犬の肉を使っていると言う。

永子と健のシーンになります。

新橋の駅前闇市が、朝鮮系の片岡組と、日本人の尾形組との対立が激しくなっているということが語られます。

健は片岡組の組長の息子。組長代理。闇市のなりたち。

この時代の朝鮮人の人たちの、山口県から帰国事業が始まっています。

この永子と健の間には、ほのかな恋心があります。



○感想10

 主人公の一人である永子に、あらたな問題が起きてくるとこですね。

 脚本の王道は、主人公に次々と問題を起こして、追い込んでいくことです。

 作家である井上さんも、この定石を使っています。

 永子にとっては、想いを寄せている(寄せることになる)相手である健が窮地に追い込まれるというのは、大きな問題です。

 ましてや朝鮮人である彼が、母国朝鮮に帰ってしまうなんてことは。

 健の父親を刺した相手がわかったのに、警察の対応がはっきりしないから、弁護士に相談に来たという健。

 永子は、それを着手料なしで引き受けると約束する。(二人のラブストーリーが、すこし前に進み出しています)

 井上さんは、彼らが置かれている状況を説明しながら、しっかりとサブプロットを進めていっています。



歌9『新橋ワルツ』

永子と健のデュエットから全員による唄。

この歌の中で、秋子、竹上、正、菊治も入ってくる。

それぞれの新橋讃歌。人間讃歌のナンバー。


菊治がもぐりの名刺屋で作ってきた名刺を各自に配る。

そして菊治も、東京裁判の弁護人の一人に選ばれたということがわかる。

菊治が上役に頼み込み、ニュルンベルク裁判のことなどを持ち出して、かけあったのだ。

どうやったら松岡洋右を無罪にできるかを検討する菊治たちだ。

松岡被告は弁護料が払えないということを聞いて茫然とする菊治。

政府が出すべきではないかと菊治は言うが、秋子は政府は世論の反発を恐れて出さないはずだと言う。

がっくりする菊治だが、自分にはこの弁護人に選ばれたという証の名刺がある。

この名刺を使って、やってやると気合が入る菊治だ。



○感想11


 メインプロットも動き出します。

 主人公の菊治が、自分の目的をはっきりさせて、動き出しています。

 裁判官として出世したい。

 妻との関係を修復したい。

 この二つが、彼の目的です。それ意外の大きな目的というのは、彼には見えません。

 井上さんは、そこはしかけているはずなので、それを読み取らねばならないのですが……。

 主人公には、問題がおきなければなりません。

 ここでも弁護法として、配剤不遡及の原則を思いつきますが、すぐに秋子に論破されてしまいます。

 さらに弁護料がもらえないかもしれないという事実を突きつけられます。

 脚本づくりの王道を行くならば、菊治はもっともっと追いつめられなければなりません。

 果たして、そうなるのか?



4場 露骨な唄による弁護料の調達


夕暮れの街角で、『東京裁判日本人弁護団』のプラカードを下げて募金活動をする一同。


歌10 菊治たち一同が、募金の歌を唄う。


募金活動の最中に、物を投げられる。

そのなかで、菊治は秋子を、健は永子をかばう。



5場 街頭募金禁止令


歌11 『うるわしの父母の国』

ビル小笠原が、日系人として日本への想いを唄う。

ビルは崩壊した日本が、元に戻る日は遠いのではと悲観している。


連合国総司令部の法務局連絡室のビル小笠原を、永子につきそわれた怪我をした菊治が訪ねる。

菊治は、募金活動で秋子をかばったことで怪我をしている。

しかし菊治は、募金活動を禁じられてしまう。

騒ぎが起きて裁判が注目を浴びるのがいけないらしい。

そこで極東委員会が、天皇は裁かないということを決めていると言われる。

なぜ天皇の戦争責任を問わないのかということを問う永子。

立場上答えられないと言うビル。


歌11の後半

ビル小笠原が、まっすぐで素直な永子に出会ったことで、この国が元にもどる日はくるだろうと希望を抱く。


ここで一幕が終わる。



○感想12


 ビル小笠原の登場シーンには、井上さんは、ものすごいテクニックを使っています。

 テクニックを使っているということを気づかせないくらいの、高等テクニックです。

 僕は、それに気づいてしまいました。

 でもこれはあくまでも僕の独善的な感想です。


 まず、なぜビル小笠原なのかということです。

 占領軍であるGHQ、つまりはアメリカを代表とする人物を、日系二世であるビル小笠原に設定したのか?

 そこには明らかに井上さんの作為があるはずです。


 日本における朝鮮人の立場と、アメリカにおける日系人の立場を重ねて見せたいというものもあったでしょう。

 日本を裁くのは、日本人でなければならないという想いを込めたのかもしれません。

 でもそれだけじゃないと、僕は思いました。

 ここで登場してくるアメリカを代表する人物というのは、本来のドラマ作りの視点からすると、主人公に大きく立ちはだかる存在(敵)であるべきです。

 敵は強ければ、強いほどいい。それがドラマ作りの王道です。

 しかしここで井上さんは、その存在を、アメリカで差別され弾圧されていた日系人の法律家として置いてきました。

 しかも出てくるなり、歌で故郷であるべき国への郷愁を述べさせています。

 これでは観客は、この人に感情移入してしまいます。いや、させているのです。

 これが高等テクニックだというゆえんです。


 主人公を追い込む存在で、観客にとっても敵であるべき立場の登場人物を、観客が嫌わない(嫌えない)人物として設定してあるのです。

 つまりこの物語における主人公が対峙するべき存在を、ぼやかしてあるわけです。

 GHQは、主人公が対立する存在ではないとも思わせています。

 これがいい事なのか、そうでないのかというのは、ここで感想として言うことではないと思うので言及はしません。

 ただ井上さんは、このGHQ側の人間を、完全な悪役にはしなかったということです。

 むしろ悪いのは戦争を起こした日本人側にあるとしています。


 この作品には、悪役は出てきません。

 ただ、戦争という悪が存在しているのです。


 あからさまな悪役を出さずに、ドラマを面白くできるのは、本当に技術のある脚本家だからだと思います。


 一幕の終わりということは、ストーリーの構成的には、中間地点ミッドポイントということです。

 ミッドポイントというのは、よく脚本術の本なので解説されていますが、ストーリーの前半と後半の境界線です。

 なぜここが意識されているかというと、だいたいの場合、ここで主人公にとって重要なことが起きるからです。

 そのあと登場人物たちは、大きく変化していくことになります。


 ここで井上さんは、『天皇を犯罪人にしない』ために、アメリカと日本が何をしたのかということを提示しました。

 歴史的に、東京裁判をそのようにとらえている方たちもいるかもしれません。

 芝居は、主義主張を述べるものではなく、井上さんがいつもおっしゃっていたように『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことをゆかいに、ゆかいなことを真面目に』やるものです。

 井上さんは、自分の歴史観を、このやりかたで観客に問いたかったのでしょう。


 ただここでは敗戦国の国民である日本人が犯した罪については、かなりの量を裂いて語られていますが、戦勝国の国民たちやアメリカについての罪については、あまり触れられていないように感じました。


 コメディ的で、恋愛物語の様相が強かった物語が、一気に深刻なテーマ性を帯びてくる。

 それでいて希望もある。

 そういうミッドポイントだったと思います。



第二幕


6場 アメリカからの弁護料


歌12 『朝の唄』

永子のソロ。



○感想13

 二幕の開始も、永子の唄から始まりました。

 しかも、この歌は、永子の成長と決意を表しています。

 井上さんが、永子が主人公だよ、そして観客のみなさん、あなたたちこそが主人公なんだよと言っているかのようです。

 この歌には井上さんの大きなメッセージが込められていると思いました。



同じ家で生活するようになった菊治と秋子ですが、まだ同衾はしていません。

菊治は事務所で机の上に寝ています。それを永子に冷やかされたりします。

菊治のGHQへの働きかけがきっかけになって、日本人弁護団に、弁護料が支払われることになったのだが、秋子はそれに疑問を持っている。

この裁判が、未来に向けて『平和の対する罪』という考えを確立することができると夢見ている。

日本を裁くことが、いずれ自分たちをも縛ることになると。

そして菊治の浮気を許しているという秋子。


歌12 『相棒ソング』

秋子と菊治のデュエットから、永子、竹上、健も加わる。

相棒がいてこそ、世界があるという、楽しい歌。


健が、竹上に、まもなく新橋で朝鮮人の組と日本人の組の抗争がはじまると告げる。

そのときは自分も先頭にたって闘わなければならないと。

戦前の朝鮮人は、日本人ではなく、帝国憲法が適応されない半日本人であったということを告げられる。

それが昨年の秋から日本人にされたと。それはそのほうが日本政府にとって金がかからず、都合がいいからだと。

永子は、それを聞いて愕然とする。


正、ナンシー、チェリーが来て、桜の丘の歌の作者は、二人の夫ではなく別にいたことがわかったと言う。

その作者も、二人の亭主たちも、広島の新型爆弾による爆撃によって破壊された町の後片付けをしに行っていて、被爆してしまい、具合が悪くなっていたことがわかる。

東京でも空襲で十万人が殺された。

殺したほうが殺されたほうを裁くとは、逆さまな話だと菊治は言う。

永子は「世界はメチャクチャだ」と言う。

「日本人も、日本人にされた朝鮮人も、みんなほったらかしにされてる」と言う菊治と秋子に、健は「捨てられたんだ」と言う。


歌13 『捨てられた』

健、永子、そして全員で唄う。



○感想14


 脚本技法の観点から見ると、二幕がはじまり、主人公たちにさらなる問題が起きたり、問題がしだいに抜き差しならなくなってくるというのが定石です。

 この戯曲でも、弁護料への疑問、主人公である永子が想いをよせる健が巻きこまれている抗争が、さらに酷くなっていくという事態が起きています。

 ある意味定石通りなのですが、主人公本人にふりかかるのではなく、間接的に起きています。

 そしてここでちょっと唐突に、「自分たちは捨てられた」んだと唄っています。

 これはおそらく井上さんが、観客に対して、問いかけているのだろうと思いました。

 あなたはどう思いますか? と。


 かつて劇団天井桟敷を主宰していた寺山修司は、演劇は観客への問いかけだと言っていたと思います。

 あらゆる芸術は、そういう要素をもっています。

 井上さんも、自分の作品を通して、観客にさまざまなことを問いかけていたのだろうと。


 こうして僕が、感想などを何時間もかけて書いていることも、しっかり作者の問いかけに応えているということですものね。

 しっかりはまっているわけです。(笑)



7場 夢の泪


連合国総指令部法務局連絡室で、ビル小笠原が永子を労っている。

永子は、健の言葉で混乱していたのを、入水自殺をしようとしていたと誤解されてビルと再会したのだ。

ビルは、永子にアメリカで日系の移民が酷い差別を受けて、戦時中は強制収容所に入れられて苦しめられたこと、そして自分たち二世はアメリカ軍人として闘ったことなどを話す。

憲法、法律が、とても大事だということを感じる永子。


歌14 『わたしは前に進む』

永子のソロ。

憲法、法律がひとをつくるということを知って自分も前に進もうという決意の歌。



○感想15

 主人公の一人である永子が、ここで「決意」を表明しているのに、僕は驚きました。

 脚本技法の定石からすると、主人公がさまざまな問題に追いつめられた後に、自ら決断を下して前に進む(変化する)のは、クライマックスであるべきなのです。

 しかしここではミッドポイントの直後、二幕目の最初の方になっています。

 展開が早い。

 僕は、そう思いました。

 展開を早くした理由はなんなのか?

 その謎は、このあと解けるのでしょうか。



8場 弁護の行方


電話が入っている弁護士事務所。

菊治は、また美人の依頼人のご婦人を追いかけて出て行ってしまう。

そこにナンシーとチェリーがやってくる。

菊治と竹上は、婦人から辛い事件の相談を受けていたのだ。

婦人は、リュックに赤ちゃんを入れて闇米を運んでいて、リュックごと赤ちゃんを警察に刺されて殺されてしまったのだ。

そして新橋の路上では、朝鮮人の組と日本人の組がぶつかり、先頭に立っていた健が、銃弾を食らってしまった。警察は、日本人の組に有利なように、朝鮮人の組員ばかりを検挙した。

そういうエピソードが語られる。

そこに菊治と秋子が帰って来る。

東京裁判まで日にちがないのに、資料が手に入らないのだ。終戦の前にすべての書類が遺棄するように命令が出されていた。そして残った書類は、アメリカがほとんど没収してしまった。

両方が証拠を隠しあっているのだ。

これが「世紀の裁判なのか」と嘆く秋子。

そこに電話がかかり、弁護する予定の松岡洋右被告が重体になったために、弁護スタッフは解散との報せ。

菊治と秋子は愕然となる。

そこに、永子が帰ってくる。命を取り留めた健の看病に行っていたのだ。

永子は、「連合国に、人さまに裁いてもらっても仕方がないんじゃないかしら。ひとさまに裁いてもらうと、あとであれはまちがった裁判だった、いや、正しい裁判だった、そういって争うことになるでしょう。……わたしたちが、わたしたちを……日本人のことは、日本人が考えて、始末をつける。……捨てられたはずの、わたしたちが、わたしたちを捨てた偉い人たちと、いま、いっしょになって逃げているような気がするの。東京裁判の被告席に座る人たちに、なにもかも負いかぶせてね」

と、言う。

感心してしまう一同だ。

ナンシーが、「人を好きになると、誰でも少しは賢くなるものね」と言うのだった。

秋子と菊治は、弁護士補佐の仕事を続けると決意する。

そこに正が帰ってきて、『桜の木』の歌の作者が亡くなっていたこと、未亡人からナンシーとチェリーに、この歌をたくさん唄ってやってくださいとの伝言を告げる。

二人の紛争は解決となる。


歌15 『丘の上の桜の木あるいは丘の桜』のリプライ。

ナンシー、チェリー、正、竹上、永子、秋子、菊治が唄う。



○感想16

クライマックスです。

起承転結でいうところの転です。

脚本の定石では、ここで主人公は最大に追いつめられて、その障害と向き合うことになるのです。


果たして、ここでは主人公の一人である菊治に、弁護人スタッフ解散という事態が起きます。

東京裁判の弁護士になって、名をあげるという目的がある菊治にとっては、最大のピンチです。

つまりクライマックスということです。


そこで何を決断するのかというのが、主人公に課されている仕事なわけです。

しかしここで菊治はなにもしません。

おろおろするだけです。

その代わりに、真の主人公である永子が、「日本人のことは日本人が考えて、始末をつける」と決意を述べます。


ここに僕が感想15で持っていた疑問の答えがありました。

井上さんは、東京裁判の弁護士を解任されるというクライマックスでは、永子は当事者ではないので、そこで問題に対峙することはできないので、そのかわりに父親母親である菊治と秋子を使って、問題に対峙させておいて、答えは真の主人公の永子に出させているのです。

そのためにも、永子をクライマックスの前に、成長(変化)させておく必要があったわけです。


そしてもう一つ井上さんの大きな意図は、

「真の主人公は、この芝居を見ているあなた自身なのですよ」という観客への問いかけにあるのだと思います。

『判らない』という目的を持って登場した永子が、観客の目線を持っていたのは、そういう意図があったのでしょう。

永子が獲得した決意、つまり解答は、観客がこの芝居を観て獲得するべきものだからです。


脚本の定石として、『サブプロットはメインプロットと最後に一つになり、当時に収束に向かう』というものがあります。

この物語においてのサブプロットである『歌の持ち主はどっちだ』というものの、ここで解決されます。

まさに王道の脚本作りを井上さんがしているということがわかります。


僕の個人的な感想としては、物語的にはこのクライマックスがいま一つ、盛り上がっていないように感じました。

その理由はなぜなのかというのを考えました。

レスペクトしている井上脚本にケチをつけるわけではありません。

自分が、そう感じた理由を探りたかったのです。


脚本の王道としては、クライマックスでは主人公が決断し、変化(成長)しなければなりません。

この物語では、主人公であるはずの菊治は、弁護士スタッフ解散という危機に直面し、ただおろおろするだけです。

変化もしません。

原因は、そこなのではないかと思いました。


この物語を書いた井上さんの立場は、永子であり、父親である菊治は『戦争を起こした大人たちの一人』だったのです。

ここでその大人たちに変わってもらうわけにはいかなかったではないでしょうか。

戦前は、戦争に向かって邁進し、敗戦したあとでは、手の平を返したようにアメリカの資本主義にまみれていった大人たち。

彼らは変わらない。

井上さんが、そう絶望していたとしてもおかしくありません。


この戯曲が、微妙に主人公をずらして書かれていたのは、そういう理由もあったのではないかと思ったのでした。



9場 エピローグ 空の月だけが暗い東京

エピローグでは、数年ぶりに日本を訪れたビル小笠原を通して、十年後の登場人物たちのその後が語られます。

永子は、父親の事務所で弁護士となっている。彼女と結婚した健は、学者の卵となり日本と朝鮮の文化交流史を研究している。


歌16 空の月だけが暗い東京


歌の歌詞には『昨日のことは忘れて 今日がよければオーケイ 成り行きまかせの街 空の月だけが暗い東京』

と、強烈な皮肉の言葉が、最後に書かれています。



○感想17

 芝居を観ていて、ウトウトしてしまった反省をこめて、あらためて井上さんの脚本を読み直して、分析というか、感想を書かせてもらいました。

 井上ひさしは、やはり脚本の王道を知り尽くし、それを手練の技術で応用していたのだということがわかりました。

 東京裁判というものが何であったのかというのを、もう一度日本人に問いかけるというのが、この戯曲の目的であり、それと同時に楽しい芝居を通して、『これでいいのか日本人』と強烈なメッセージを投げかけていたのです。


 また勉強させていただきました。


 個人的には、現代日本史というか、戦争から戦後、そして現代にいたる歴史をもう一度学びたくなりました。

 松岡洋右という人物も非常に興味深い人物ですね。

 まさにキーパーソンの一人です。

 そういうことを再び知ったのも、この芝居を観たおかげです。

 ありがとうございました。

 井上先生。


 こんな長い芝居の感想を、最後まで読んでくださった方がいたら、その方にもお礼をもうしあげます。

 おつかれさまでした。

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