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こだわり

こだわりを持つことが悪であると感じることが時々ある。好きな服、好きな食べ物、好きな本、好きな映画、好きな時間、好きな人、好きな空間。それが好きだと言葉にした時、同時に何かを失った気がして、もしくは他人から烏滸がましいと思われる気がして、躊躇してしまう瞬間がある。

少し前、嫌いな食べ物があることに憧れを抱いていた。とりわけ嫌いな食べ物がない自分にとって、「これだけは絶対に食べれない」と頑なに何かを避ける人は人間性が溢れ出ているように見えた。ピザが好きですって言われるより、ピザが嫌いですって言われた方が気になってしまう。それは僕が好きなピザだからなのだけど。でもやっぱり、嫌いなものが明確な人は、どこか清々しくて見ていて気分が良い。

好きなものが多い人、もしくは何か一つがすごく好きな人はどこか面倒臭い。多分自分がそういう人で、そんな自分に一種の嫌悪感を抱いているからだ。

この前友人とブックオフに行って、選んだ漫画をお互いのために買った。彼は漫画好きだったので、表紙も内容も僕の好みに合いそうな物を選んでくれた。実際そのうちの一冊を読んだけど面白かった。僕はほとんど漫画の知識がないので表紙の雰囲気と絵柄で選んだ。

帰り道、これはなかなか面白いから他のジャンルでもやりたいねと話した。でも、お互いが好きな(すごく好きな)ジャンルだと逆に楽しくないという話になった。漫画は、僕が全く知らなくてこだわりも何もなかったから楽しかったのかもしれない。だからこそ僕も表紙だけの情報で思い切って数冊選ぶことができた。

大好きな映画でこれをやったら多分数時間待たせることになるだろうし、きっと相手も選ぶのに億劫になるだろう。もし相手も映画が好きな人だったら、ある程度のオタクだったら知ってる常識的なのを配慮するせいで、あんまり新鮮な体験じゃなくなる。

誰かが好きなものについて熱烈に語ってくれるのは聞いていてすごく楽しい。こだわりがあっていいねぇとか思う。でも自分はといえば、こだわりを無くそうと必死だ。これは何かのジレンマなのか。〇〇が好きであることに対して怠がられること程怠いことはない。自分が好きなことに対してもその人が嫌悪感を抱いてしまっては大変だし。となるとリスクを負わないために、自然と表に出さないようになる。

でも待ってくれ。
やっぱりこだわりがない人ほどつまらないことはない。

この前友人に「なんで邦画見ないの?」と聞かれた。
その時は冗談でわざとらしく「クソだから」と言った。
「中学の時から邦楽嫌いだもんね」と彼が言ったので、
「邦楽もクソだし」と言った。

全部冗談だけど、今真剣にその答えを出すとするなら、
「邦画を見ないんじゃなくて、たまたま自分の見たい映画が邦画じゃないだけ」というだろうし、中学の時も賑やかな洋楽に夢中すぎて邦楽のことなんて知りもしなかっただけと言うだろう。


この回答にこそ、面倒臭いこだわりの強さが詰まってるけど。
そんなの仕方ない。


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