「自分に合った勉強法を見つける」にはどうしたらいいのか?


 僕は「勉強法を教える」というスタイルで家庭教師をしています。勉強法を改善すれば、自学で成績が伸ばせるようになり、それが大きな成績の伸びにつながると思っているからです。


反勉強法

 でも勉強「法」の「方法」という概念について懐疑的でもあります。デカルト的に考えれば、正しい方法に則って思考すれば誰もが同じ真理に辿り着くのでしょうが、僕はこれには同意できないです。残念ながら頭の良さには個人差があることは否定できないです(「良さ」という尺度で優劣をつけることは正しくないようにも思います。しかし、ここで強調したいのは個人差があるという事実です)。いや、むしろ全ての人に同じ可能性が秘められていると考えることは、個人の個別性・特殊性を無視する暴力的な側面を孕んでいるとすら思います。だから、どうしようもない個人差があることは、残念な事実ではなくて、目の前の生徒をケアするための出発点であると思うのです。


少し脱線してケアの話を

「近代以降の倫理学は、善悪の問題を人物の特性や心理と結びつけて論じなくなった。だが実際の社会で遭遇する道徳的・倫理的問題は法律や規則では割り切ることのできない具体性・個別性をもっている。私たちが現実の状況の中で道徳的に判断し行為するために必要なのは、一般法則を個別法則に適用する演繹能力ではなく、ここの状況の特徴を知覚し、その場でただちになすべき行動を自覚する能力のはずである。」(河野哲也『善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学』 講談社 2007 P163)
「ケアにおいては、私たちは具体的なひとりの人物に向き合うのであり、さまざまな特殊性と個別性をもったひとりの人物の成長を援助する。ケアにおいて現れる他者は、顔をもたない一般化された他者ではない。」(前掲書 p167)



河野哲也は近代の法学的な倫理を批判する文脈で徳倫理学やケアの倫理を紹介しています。私が展開しようとしている勉強法の方法的側面への批判は、河野哲也の議論と重なる部分があるのではないかと考えています。上記の引用の文脈に則して述べるならば、私の授業はケアとしての側面を多分に含んでいると思います。

 ですから、僕にとって「勉強法」とは、普遍性・一般性を持ったものではなくて、特殊性・個別性を持ったものです。

(もちろん、勉強をする上で無視できない原理原則のようなものはあります。ですから、勉強法にはある程度の普遍性も存在します。ですが、今回は特殊性の方に焦点を当てて議論を進めたいと思います。)


勉強法を見つけるとはどういうことか


 そうすると「自分に合った勉強法を見つける」ことが大事になってくるわけですが、この表現がまた曲者で問題含みです。

 この「自分に合った」と「見つける」とはどういう事態を指すのでしょうか。掘り下げて考えてみたいと思います。

 そもそも、ある勉強法が自分に合ったものであるかどうか、当人が正確に判断することは可能なのでしょうか?可能であるなら、それはどのようにして可能なのでしょうか?

 私の、指導経験上、勉強法を変えてすぐはやり方がしっくりこない場合も多々あります。例えば、英文の読み方を正確なものにしようとすると、それまでの適当な読み方に比べて、むしろ読みにくくなることなどがあります。

 だとすると、ある勉強法を試してみて「合わない」と感じても一定期間は我慢して試行するしかないということになります。しかし、いつまで我慢すればいいのでしょう?我慢してやはり「合わない」という結論に至れば、それは無駄になってしまうのではないでしょうか?

 勉強法を見つける過程での失敗は次の二つの方向性に分類できると思います。一つ目は、勉強法をコロコロ変えて、何も得られないまま終わるという方向性です。三日坊主を繰り返して成長しないパターンです。このような失敗をする人は、勉強法を静的に捉えていて、勉強法を改善する動的な過程に目を向けていません。この点については後ほど詳述します。もう一つは、対立する複数の勉強法の違いが気になるあまり、身動きが取れなくなり、行動に移せなくなる方向性です。例えば「〇〇先生はこういう教え方してるけどどうなんですか?」みたいな質問をしてくる生徒に当てはまります。この後者に当てはまる人は絶対的で普遍的な「正しい勉強法」が一つだけ存在していて、それを見つければ勉強が上手くいくようになるだろうという誤った信念を抱いています。この点についても後ほど詳述します。

 

 前者の問題点は、勉強法の選択を固定された静的な勉強法と自身のマッチングと捉えているところにあると思います。そういう人は、運命の相手を探していて、些細なズレが許せなくて相手をコロコロ変えるような人に例えられるかもしれません。私は勉強法の選択とは、自身の状況と課題との間に生じるズレや違和感のようなものと向き合い続け、絶えず勉強法を改善する動的な過程のことであると考えています。私が「受験勉強では勉強法が大事だ」と思うときの「勉強法」とは「静的で明文化できるような勉強法」ではなくて「勉強法が更新される過程そのもの」を指していると言えるかもしれません。一見すると対立するように見える勉強法であっても、その対立は弁証法的に解決できることはしばしばあります。例えば、精読と速読という対立は弁証法的に解消することができますし(https://note.com/daikatsumata_54/n/n0b8def316e56)、暗記か理解かという対立も解消できます(https://note.com/daikatsumata_54/n/ncbd7026a2191)。

 後者の問題点は、絶対的に正しい勉強法が存在すると前提して、それを探し続けていることにあります。勉強法の中には、対立するものもありますが、それらの優劣を気にしすぎるのは得策ではないと思っています。方向性の違う勉強法が複数あって、それらの間に優劣が存在しないか、あっても無視できるほど小さいものである場合はあります。そういうときこそ、自分に合うかで選べばいいのです。もしくは、なんとなく好きな方を選んでもいいし、たまたま教わっている先生の流儀に従ってもいいでしょう。

 正しい勉強法を探すことに固執することの問題点は、勉強法の習熟度のようなものを考慮していないところにあります。同じ勉強法を実践している人の中でも、その習熟度・洗練度のようなものは千差万別です。だから、どの勉強法を選択するかという問題とは別に、どれだけその勉強法に習熟しているかという問題があるのです。スポーツのフォームなどを見ると、熟練者・上級者のフォームには共通する部分もありつつ個性もあります。熟練者が自分の方法を語るとき、自分が大事にしていることを語る傾向があります。すると、どうしても個人差が生じる部分についての話が多くなります。これを初心者が聞くと、どの方法が正しいのか分からなくなり混乱するのです。どの方法を選ぶかという観点だけでなく、どれだけ習熟しているかという観点を持つとこういう落とし穴を避けやすくなるかもしれません。



どう勉強法を探せばいいのか

 では、結局のところどうやって勉強法を見つければいいのでしょうか?ごく当たり前のことしか言えませんが整理してみます。

 勉強法を適当に選んでしらみつぶしに当たりを探しても、良い勉強法を見つけることはできません。今の自身の状況がどうであるかという現状分析と勉強法の選択は常にセットになっているからです(では、どうやって現状を分析すればいいかという問題が浮かび上がっています。これも難しい問題なので他日の課題とします)。そして試行期間には、効果を疑いつつも全力で取り組むことが大事になるでしょう。「人のアドバイスを素直に聞く」ことはしばしば美徳とされますが、私は人のアドバイスは無批判に受け入れるべきではないと思います。常に、もっといい方法がないか、自分に合わせて改良できないか考えるべきです。特に、その勉強法がどういう意図で提唱されているか、実践している人はどういう意識しているかを想像することはとても大切だと思います。例えば、音読という勉強法を実践するときに、闇雲に音読をするのではなく、音読するときにどこに意識を置くのか(英語のリズムや音なのか、意味や構文なのか)といったことを考えながら実践することが大事になると思います。

 

 ごく普通のことをなんとか理論化し言語化して提示しようとしたらこうなりました。大した結論はありませんが今回はこの辺で筆を置きたいと思います。

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