三浦梅園という人物

三浦梅園は、享保8年(1723)に生まれた。本名、三浦晋(すすむ)。梅園とは、後に彼をしたって各地から集まった者たちの塾を『梅園塾』と呼んだことに由来するという。幼い頃より『日は東より出て、西に入る』といった転地万物の営みを当たり前とせず、その事実に強い疑問を抱き続けた。そして独学のすえ、『天地万物はみな一つの根本から現れているもので、その現れ方には決まった条理(筋道)がある』という哲学体系『条理学』を構築した。

ともかくもこういう梅園の見方には、「一、一」には「一即多」あるいは「多即一」が含まれながら見えてくるという思想があらわれていますね。
 こうした梅園の哲学や思想は、「条理学」とか、「反観合一の条理学」などとよばれます。「条理」というのは
孟子に出てくる言葉ですが、「条」は木の枝のこと、「理」はその筋をつくっている考え方の理脈のことです。

 三浦梅園が「一、一」を条理の単位とした「反観合一の条理学」を独自に樹立しようとしたことは、まったく誰も思いつかなかったことでした。
 梅園は当初は、これを中国の
陰陽思想や易のシステムや儒学をヒントにして思いつくのですが、あとでも言いますように、それにとどまるものではなかったと思います。もっと豊饒な思想的背景をもっていた。しかしこんなことをいうと、ちょっとおこがましいのですけれど、きっと梅園もどこかで、「半分、半分」というふうに物事を見ていったのではないかということを想像させます。さきほど紹介した『和漢朗詠集』を13歳で書き写したということも、なにかそういう発想を早くからしていたのではないかと思われるのですね。
 ちなみに、私自身は「半」と「対」と、そして「一つ」と「三つ」ということ、および「べつ」と「ほか」ということに関心をもっていて、それらを組み合わせて編集工学に使ってきたのですが、梅園は徹底して「対」と、その組み合わせのみを駆使します。「三つ」は使わない。
 この「三つ」を使わないというところも、梅園独自の信念にもとづいていたところです。梅園が初期に依拠した陰陽哲学では二分法が占め、五行哲学では三分法がつかわれているのですが、梅園は五行を排して、陰陽的な「一、一」の構想に徹したということなんですね。

中国では物事や現象の究極をよく「太極」といいますが、これは北極星のように天空で動かぬ方点のことをいいます。これをめぐって北斗七星が動く。太極はつまり、天の中心です。そこに風水思想などが加わって、天帝や天子は太極としての北方にいて、顔を南に向けているとも考えられました。これをよく「天子、南面す」と言いますね。
 こうして、北方に幻想的に設定されたのが玄武です。これは宇宙亀です。それから東方に青竜、西方に白虎、南方に朱雀が想定された。四方の幻獣ですが、これらは古代中国の天円地方という宇宙観の色も決めている。北が黒で、東が青で、南が赤、西が白、です。これは相撲の黒房・青房・赤房・白房にも使われていますよね。
 しかし、それとともにこの四方およびそのあいだのすべての方位には、色だけではなく、星宿や季節や物質などがことこまかに配当されているんです。そういうすべての情報配当の元締めが太極であって、「玄」なんです。

こういうふうに、北方の黒としての「玄」は非常に重視されたのですが、そのため、思想や世界観のなかで最も深まるものを「玄学」というふうに呼ぶようになります。さらに「玄のまた玄」というふうに、さらに深い思想を求める傾向が出てきた。入唐した空海は、この玄学をかなり追いかけていました。
 梅園が自分の思想の構想を提示することになった著書を『玄語』というふうに名付けたのには、こうした背景があると私は思っています。つまり、これはタオイズムなんです。タオというのは「道」のことです。中国語では鼻にかかってダオというふうに発音します。
 そのタオが古代中国哲学の根本にあるんですね。すなわち太極としてのタオ。そのことを老子は、こう言っています。「道(タオ)が何かということは、容易には語れない。そこに名をつけたとしても、その名が根本を示しているかどうかはわからない。しかし、そのような根本を示そうとした名のうちに、何か同じものを思想しているものがあれば、それが玄というものだろう」というふうに。これはまさに『玄語』に流れている思想をあらわしていますね。

さて、われわれ日本人は、陰陽思想というのをなんとなく知っています。宇宙や世界には陰と陽の二気があって、これがいろいろ組み合わさって物事や現象を生んでいるという考え方です。その陰陽のパターンにもとづいて「易」の象なども決まっている。
 これはどういうことかというと、タオイズムでは、タオは宇宙や世界のもともとの「気」にもあたるものなんです。つまり「元気」です。ですから、タオは太極としての道であって、その道の根本は元気というもので、その玄妙なるところから陰陽の二気が出てくる。こういうふうになっている。
 梅園はこうした老荘思想、タオイズム、陰陽哲学、易の見方を背景に『玄語』を組み立てたんですね。

梅園はこう考えます。宇宙における全現象は陰陽二気にあたる根幹で生じたのだろうから、その当初のところには概念の最初の一対があったはずだ。それならその最初の一対を決めればスタートが切れるのではないか。こういう感じだろうと思います。
 そこで梅園は、これを「気-物」と考えてみた。そして、そこからいろいろの派生する一対を配当してみたのです。ところが、そうしていくと、すべてはピラミッド構造かツリー構造になってしまう。どうもそれでは示せない。「気-物」もあるけれど、「天-地」や「精-神」からスタートを切るものもあるわけです。
 では、対概念を次々にツリー状にぶらさげるということをやめると、今度はいろいろな一対構造がヨコに並列してしまう。それでは広がりすぎます。互いに関係しあわない。
 しかし、ここで梅園はあきらめなかったんですね。それぞれの一対派生モデルをつくっておいて、その「中途」のアドレスと、「半端」のセマンティクスを点検し、突き合わせていったんです。こうしてよくよく注意して調べてみると、どこかの段階(中途)で一対に分配された概念の片方(半)が、ツリーが進んだどこかの段階(中途)で生じた一対の片方に当たるばあいもあることに気がつきます。そういうものが、いっぱいある。
 これはツリーライクな構造では示せません。並列ツリー構造でも示せない。コンピュータならまだしも3次元表示と、運動プロセスや遷移プロセスを加えた表示が可能かもしれませんが、400年近く前の江戸ではそれはできません。

もうひとつ気がついたことがあった。それは、概念それ自体の関係性とともに、それとはべつに、思考的概念があるということです。たとえば、数学でいえば演繹と帰納とか、微分と積分とか。
 こういう言葉は、思考方法をあらわしている。そうだとすると、これはこれでべつに扱ったほうがいいわけです。それで、梅園はこの中核に「理」と「故」の一対をおくんです。「理-故」というのは、現象概念ではなく、思考概念ですからね。これを新たに組みこんでいくように試みたのです。
 しかしそれにしても、こんなにいろいろな方向と流れをもった対概念たちを関連づけるにはどうしたらいいか。これは難問ですよね。

こうして着想したのが、円相的表示なのです。梅園は同心円を思いついたんですね。その同心円も対概念の情報性によって一重にも三重にも、またその中での分岐ももてるようにした。
 しかも円構造は、それぞれが同じディグリーをもたないようにしたんですね。メトリックも異なるようにした。ということは、一枚一枚の円は基本単位としては、完全な概念的対構造の自結モデルとして機能しているのですが、そのモデルが他の円相の一部に組こまれると、みごとに動き出す。そういうふうにした。
 この方法で試みてみると、驚くべきことも発見できます。それは、一枚の玄語図であらわした概念派生図は、そのまままったく別の玄語図の一部に代入できるだけでなく、そこにはいくつもの“概念運動”が見えてくるということです。こうして一枚の図がモデルとなって、他のモデルの部分を拡張したり収縮させているということになるというような、きわめてユニークな見方が可能になってきたのです。
 いったいどうやってこんな独創的なアイディアを開花させていったのかと思いますが、おそらく梅園には、今日でいうクラスとメンバーといった集合論的な発想はかなり早期に思いついていたのだと思います。むしろそれを超えて、概念が互いに動きまわる
リンク構造さえ思いついていたのではないでしょうか。

もうひとつ、付け加えておきたいのは、梅園の条理学やその図示システムは、バイナリーなデジタル思考を先取りしていたということと、その一方で、デジタル表示の限界を超えようとしていたことです。
 条理がデジタル的だというのは、「一、一」の対が動くわけですから、ここは「0、1」のバイナリーな対応に似たものがあるわけですね。これはウィルヘルム・ライプニッツが「易」をヒントに2進法を
“発見” したということにも匹敵して、大いに注目されるべきでしょう。
 しかし一方、梅園は「0、1」は思考の計算には役立つが、表示や表現にはちょっと合わないと見抜いていたように思います。デジタル思考はすぐれて選択的で、また排除的なのですが、そのかわり再帰性や途中参入性をもちませんからね。
 こういうところも、梅園の工夫のすごかったところだと思います。

ところで、梅園の「三語」は『玄語』のほかに『贅語』と『敢語』というのがあるのですが、これは何かというと、これまた驚かされるのですが、『贅語』は『玄語』を成立させている思想の引用文を巧みに構成したものなんです。
 梅園は『玄語』にはいっさい引用をしていないんですね。独自の言葉でどんどん書いている。造語もいっぱい出てくる。だから、わかりやすいかわかりにくいかはべつとして、何にも迷わずその中に入っていける。
 これに対して『贅語』はその『玄語』の思想の典拠引用のデータベースにあたっていて、しかもすばらしいディレクトリーがついているんです。仮に『玄語』が意味論理の提示そのもののシステム表示であるとしたら、『贅語』はその意味作用の背景の全文検索が可能になっているわけです。これは、参りますよねえ(笑)。
 一方、『敢語』というのは文字どおりは「敢えての書」ということですから、これは『玄語』を使っていくときの心得になっている。いわばルールブックであり、その活用にあたっての倫理や道徳を書いているんです。こりゃまた、驚きますね(笑)。

 まあ、今夜はこれ以上の類推をすることは控えておきますが、このような三浦梅園にエンジニアリングの発想と計画がなかったとは、もはやいいきれないと思います。三浦梅園という人は、やっぱり編集工学の曾祖父か、そうでなかったらその大叔父だったのではないでしょうか(笑)。
 最後に、この話の最初で、梅園は生涯に3度だけ国東を離れて旅をしたと言いましたが、このうちの2回は長崎と伊勢参宮でした。これはまことに象徴的なことで、この時代に特有な伊勢信仰と洋学趣味があらわれているように、私は思います。
 日本のエンジニアは、もし現状が閉塞しているのなら、欧米という長崎もいいのですが、そろそろ一度は本物の伊勢へ行ったほうがいいのじゃないでしょうか(笑)。ではこんなところでありがとうございました。

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