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生きづらくない人| 第4回 |夫婦は向き合わないこと

 ぼくたち夫婦は仲が良い。自慢したいくらいだ。うふふ。でも、ものすごーく険悪な時期もあった。これからだって、油断していたら泥沼にはまってしまうこともあるかも知れない。だからいま、何故仲良くいれるのようになったかを、健忘録的にまとめて書きたい気分になった。今回の『生きづらくない人』は番外編。ぼくたち「生きづらくない夫婦」について書きたいと思う。

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 本居宣長さんは、『古事記』に現れた神話をそのまま忠実に読んでみて、古人がどういうふうな神様の信じ方をしたか、だんだんと明瞭にしていきました。古人には、ただ信仰があった。その信仰は、みんな個人個人の別々のものであった。別々の信仰で、彼らは安心していた。なぜかと言えば日本人という民族の統一感というものがあったからです。その統一感の中にいれば、どんな神様を信じたとしても俺の勝手だと言えた。それで十分足りたのです。それが最も健全な神様の掴み方であるとみんなが信じていたんです。
                                小林秀雄

 夫婦は最小限の共同体だと思う。ぼくはことさら、自分を日本人だとも思っていないし、つねに1人のただの人間でありたい。それぞれが、それぞれの感性を大事にしたまま、夫婦になる。努力する必要もない。 

 7年前のぼくたちの結婚式。彼女のスピーチを想い出す。キスミワコは両手をいっぱいに広げて、ミュージカルのお姫さまのような振る舞いでマイクに向かった。
「ダイチャンは、ミワコをいつもキスミワコ100%でいさせてくれる人なんです」
 と、歌うように言葉を発した。スピーカーから漏れる声よりも、彼女の身体からじかに響く声が会場を揺らした。彼女がぼくといる理由は、好きとか愛とかいう曖昧なものでなかった。自分にしかわからない、自分らしさを感じる時間をぼくを媒介してできている、そのことに感動した。

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 どうやっても修復不可能なら、離婚したっていい。夫婦で同じものを信じる必要もない。どちらかが我慢することもない。自分自身が気ままになれないのなら、国家だって夫婦だって解散してもいいんだ。それぞれが勝手気ままに。ぼくたち夫婦が仲のいいのは、そんな風に過ごしているからだと感じている。
 

 奥さんのミワコちゃんは自由な人だ。パンを焼いてみたい! と思いつくとその瞬間にやる。

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夫婦は向き合わないほうがいい。人間は感じる時間の強弱や、歩くスピードも人それぞれだ。人と人が同じになる訳ないし、どちらかに合わせると疲れてしまう。
 例えば同じ場所に行くときも、ペースが合わない日はバラバラで出かけるようになった。待ったり待たされたりするとお互いにストレスになるから。ミワコちゃんが行きたい時間に行ってもらって、あとからぼくが追いかけることにした。そうしたら帰りも自分が帰りたい時間に帰れるから、随分と気が楽になった。監視したり束縛したりは、窮屈で仕方がない。ぼくたち夫婦には「やったらダメ」「行ったらダメ」はない。家族全員がやりたいことを自分のペースでやる。夫婦がお互いに邪魔さえしなければ、簡単にできる。

 ミワコちゃんは嫌なことされると、すぐに怒る。怒りを絶対に貯めない。感じた瞬間に口に出す。でも嫌な感じが何故かしない。その理由が最近わかった。
 彼女は「わたしが嫌だからやめて!」といつも怒るんだ。その感情はシンプルに響く。怒りの理由を「普通は」「常識では」「一般的には」「社会的には」や、まして「村上家では」とかにしない。ぼくが他者と怒りでぶつかり合ったときに、いつもモヤモヤするのはここなんだな。個人的な感覚の違和感で怒るのは、人間だから当然だ。みんなそうなんだから、あなたのやったことは一般常識ではワガママ、だからわたしは怒ってあたり前、というふうに、相手を納得させようとする人がいる。そう言われて、しぶしぶ納得したことが人生で何度もあった。違和感だけがずっと残りつづける。
 ミワコちゃんは、怒りという感情を、常識に結びつけることを一切しない。彼女がしたいのは説得ではない。自身の感情が傷ついたから怒るんだ。彼女はそのことを素直に言う。相手を変えたいと思うと、人間は幸せになれない。ぼくもミワコちゃんにはもちろん、他者を説得するのをやめた。ほとんど夫婦喧嘩もなくなった。
 ベルクソンは人間が変わるときは、自分の内側に衝撃がおこったときだ、と書いた。外側からやってきた衝撃はいずれは消えてしまう。他者からの伝達や命令、地震や豪雨などの天災、ウイルスによるパニック。それらはやがてカタチをなくして消える。人間が内側から起こした衝撃は、永遠に消えさることはない。何故なら葉の揺れのような小さな日常のなかにも、奇跡を感じて、新たな衝撃をおこすことができるからだ。人間の内側から生まれた衝撃は、世界をどこまでも拡張する。

「家族は対話しないこと」これは精神科医の神田橋條治が書いた言葉だ。

 ぼくは、どうも自分の知ったことを熱弁したくなるときがある。ミワコちゃんには、「暑苦しいし、うっとうしいし、どうでもいい」と言われる。ふふ。
 ぼくは、神田橋先生の哲学を採用して、持論を語ることを夫婦間でしないようにした。ソクラテスは、何かの利益のために人を説得しようとするレトリックを嫌がった。それは真理のためのものではないからだ。真理というものに触れるには、相手はいらない。自問自答すること。より深く問いに向かって世界を掘ること。
 どちらかが答えを出した雄弁ほど、夫婦にとってつまらないものはない。お話は雑談がいい。雑談とは2人がお互いに、わからないことを素直に言葉にすることだ。言葉とは説得するためではなく、何かを知るために存在している、と感じ始めている。わからぬことをわからぬまま、2人が己を捨てて話す。あるいは、ただただ、感じた風景や、娘の動きを描写して言葉にする。ぼくはこんな会話を雑談と呼んでいる。雑談こそ、夫婦を共生させる生命体なのかも知れない。伝達や命令のない会話は、夫婦空間を広げる宇宙になる。

 最近、ぼくは畑を始めた。開墾した畑は発芽率ゼロで全滅だった。とほほ。ぼくは自分の畑を諦めて、ミワコちゃんの畑を手伝うようになった。
 夫婦で共同作業をして喧嘩にならないものを発見した。それは畑だった。

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 畑は作品づくりとは、感触がまるで違う。なんというか、出発点は自分ではなく、いつも土だ。種をまく。太陽の光があたる。ジョウロで水をそそぐ。畑は1人でやるより、家族でやったほうが楽しい。何故だかは、わからない。思えば、ミワコちゃんと出会ってから16年ほどの歳月が流れた。2人でやっていて、楽しいものがやっとできた。きっと畑はお互いに、何かしらの利益のためにやっている訳ではないからだろう。作物の自給率なんてどうでも良くて、土に触れたいだけだ。損得でしか相手を見れなくなったときに、関係は崩壊する。一番近くにいて長年よりそっていても、やっぱり人と人は理解し合えることはない。それは、ペシミズムでもなんでもなくて、ぼくにとっては壮大な希望だ。価値観や感じ方がそれぞれに違うことは、本来は喜ばしいことなのだ。それはそれぞれの人間が、自分自身を生きているということなのだから。理解し合えないことを理解し合うこと。わかりあえないことを、それぞれが肯定すること。

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 ぼくたちは2人で、畑の土を掘り返した。手は土の温度を感じる。それぞれが自分だけの熱を体感する。ぼくの手は土まみれだ。それを見てミワコちゃんは笑う。右手で左手にこびりついた土をこそいだ。パラパラと手についた土が、大地にふたたび戻った。手からは土だけではなく、ぼくの一部もぽろぽろと落ちていった。個体が個体であることを忘れて、主体や自我すらなくなることがある。それは一瞬だけ世界におこる奇跡だ。夫婦が夫婦でいられることも、奇跡の連続だ。この直観をぼくは感じつづけたい。

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 山の谷間から、畑に向かって風が吹いた。ミワコちゃんは草や土に話しかける。彼女の声に畑の全体が喜んでいる。冷たくも生ぬるくもない、不思議な清々しい風がぼくたち夫婦の間を通り抜けた。

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