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宝ヶ池のボート

 自堕落大学生の典型例である。14時の起床。外は梅雨のどんよりとした空気ではなく、夏の夕立のようなゲリラ豪雨だった。すぐさま、ヤフーの雨雲レーダーを開き、30分後には雨が上がることを確認したぼくは、シャワーを浴びてコンタクトを入れ、外に出る準備をした。
雨がしっかり上がり、晴天が広がることを確認したぼくは、自慢の緑のクロスバイクを走らせ、宝ヶ池に向かった。気温は32度。着いた頃には汗がにじむ。制汗シートで身体をひと通り拭いたぼくは、目的でもあったボート乗り場に向かった。そこには、70歳くらいのおじいさんが、ボートの手入れをしている。
「すみません、このボート乗りたいんですけど。」
「えっ?」
「あっ、ボートの受付ここですか?」
「ああ、ボート乗るのね」
「一人でもいけます?」
「かまへんよ、どっちのボートにする?」
ここでは手漕ぎのボートと、足で漕ぐハンドル付きボートの二種類がある。手漕ぎの方は、1時間1000円で、足で漕ぐ方は30分で1000円だ。この痛いほど照りつける太陽の真下で、手漕ぎは御免だと思ったぼくは迷わず、足漕ぎの方を選んだ。こっちは屋根も付いている。
「きみは、ひとりやから、ちょっとお尻を真ん中へんに置いてくれたら、重心が安定するわ」
「こうですか?」
「そうそう、ほんで奥の方は行かんといてや。あっちは深さが足らへんから、危ないんやわ」
「あっちの方ですか?」
「そうそう、ほな30分後にここへ帰ってきて」
「わかりました」

 30分という時間。だいたいぼくはこういう有限性を持たされると、どこか完璧さを追求してしまうから苦手なのである。10分間読者と言われれば、キリのいい場面が10分後ちょうどに来ないと気持ち悪い。2日間のデートプランを考える。観光名所を余すところがないか、完璧になるように詰め込む。4000字のレポートでは、ちょうど4000字前後で結びを書かなくてはいけない。囚われるのが嫌いな性格だ。無限性のなかで、帰納法的に生きることを一つの享楽としている。完璧性を求めると、その差異がどうしても気持ち悪くなってしまう。どうせ目的通りなんて全てのことならない。
とはいえ、社会はその有限性のおかげで成り立っていることは知っている。というかそもそも、世の中、有限性がないものなんてない。つまり無限的なものはない。有限性は本質なのだ。だから、ここはいっそ完璧な30分間を過ごそうと意気込んでみる。

ー5分で池の真ん中に行き、25分で村上春樹の短編の一つを読み切り、5分で乗り場に戻る。ー

単純かつ実現可能なプランが出来上がった。

 まず、池の真ん中に着いた。だが、ぼくは村上春樹を開くことはなかった。ぼくは実のところ、ボートという乗り物を乗ったのが初めてだ。(うっすらと幼稚園の時に乗った記憶がある程度なので、初めてとする)だから、もう漕いでいることが楽しくてしょうがなかった。水面には、夏の青空と積乱雲、周囲の緑が反射する。そこをぼくのボートが切り裂いて、その反射に波を立て、崩していく。セミが鳴く。亀が泳ぐ。全ての感覚を研ぎ澄ませた。生きている心地をいっそう感じた。
真横で泳ぐ鴨が二羽いる。ちょっと追いかけてみた。鴨は逃げる。ぼくは追いかける。逃げる、追いかける。この攻防戦に熱中していると、すぐ近くにボートが見えた。カップルらしい。ここは『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の撮影場所になったということもあり、デートスポットにもなっている。他人の目なんてどうでもいいと腹を括って来たものの、ひとりで鴨を追いかけ回す自分を客観視してみると、滑稽のそれだ。なんとなく笑われている気がした。

 残り時間は15分。さあ、村上春樹を読もうと本を開いた。短編の2分の1ほどまで読んだ。村上春樹はぼくが高校時代過ごした芦屋市で育った。彼の出身中学、高校も少しばかり知っている。物語に出てくる坂、港、駅、いろいろな風景は想起しやすい。実際、聖地巡礼とまではいかないが、高校時代に村上春樹を思い浮かべて六甲の住宅街の坂を上ったことがある。あとは『ノルウェイの森』をより想起させるために、スペッツェス島へ行こうか。そんなことを考えていると、時間は残り5分だったので、乗り場へ戻りはじめた。

 その後、ぼくは宝ヶ池公園のカフェに入り、クリームソーダを頼んだ。ここは珍しく、喫煙席がある。タバコを吸いながら、池を眺める。ぼくがボートを降りた後に、4歳ほどの子どもとイクメン風のお父さんの親子が乗ったのが見える。よく見ると、子どもの指は鴨を指している。それを追いかけるようにお父さんに命じる。お父さんは子どもにとってのスーパーヒーローであることを誇示するように、鴨を追いかけまわす。子どもは近づいた鴨に触れようとわくわくした顔で手を伸ばす。
ぼくは、ただ無目的に鴨を追いかけまわすぼくは、お父さんのように大人的ではない。4歳の少年のような子ども的だ。まだまだぼくは子どもだ。

1時間ほどしてカフェを出ると、外は雷雨だった。古めかしい自販機のビニル屋根で雨宿りをした。

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