ギャンブル遍歴(3)

これは私見だけど、ギャンブル依存症の克服に限らず、人が変わることができる瞬間というのは、巨大な「恥」を知覚した時だと思う。

ポジティブでもネガティブでも、どちらにせよ人が変化するには「人とのかかわり」が、内省的な自己のみが産み出す思考よりも、もたらす影響は大きいように思う。

人は社会性の生き物であるわけだから当然と言えば当然だけど、実感として自分で自分を変えようと、曲がりなりにも40歳にもなって思い立って実行しているのは、やはり「自分以外の人との関係」によるものだと、強く思える。

家族でも、恋人でも、友達でも、誰でもいい。
信頼できる誰かに、今の(それがどのような経緯で発生したにせよ)窮状を正直に、嘘いつわりなく打ち明けることができれば、そしてそのことを強く「恥ずかしい」と思うことができれば、人は変わっていくことができる。

40歳でも、50歳でも、たぶんいっそ年老いて死ぬ直前にだって変わることができるだろう。
自身が思うより、人は人に影響される生き物だから。



⑥競馬に出会う(1)

ここ3年くらいの間に、競馬界において(歴史上何度か起きたであろう)ひとつのパラダイムシフトが起きた。

そう、ウマ娘である。

それまでも様々なゲームや漫画が登場し、そのたびに盛り上がったのは確実だ。
しかし、このゲームの始まりにより、さらに馬券購入の裾野は広がった。
(個人的な意見を述べると、ウマ娘の中でも、アニメ2期の異色の出来の良さがさらに呼び水になってと思っている)

このアニメがね、テーマがどうこうというより、アニメ作品としてここ十年間だけで比較しても五指に入る素晴らしいものなんですよ。

競馬ファンのみならず、アニメを一般的に見る習慣がある方で見たことない方は是非見てほしい。

閑話休題。

ゲーム、そしてアニメに同時にはまり、競走馬の歴史を知っていく。
そして騎手と人のドラマ、受け継がれる血脈、人の意思、ファンたちの夢に触れる。

一気に競馬が好きになった。
そして、それは今でも変わらずに好きだ。大好きだ。

しかし、好きになるだけだったら良かったのだ。
競馬は「ブラッドスポーツ」と呼ばれ、長い歴史において血統が重視される。
公営ギャンブルという大きな側面があるものの、先述した馬や人のドラマはふんだんにあり、馬券を買わなくてもスポーツ観戦としての楽しみは十分に用意されているし、見出すことは難しくない。

しかし、コロナ期間によりパチンコには行かなくなった自分が競馬を始めると、どうなるのか。
答えは明白である。競馬のギャンブル的な楽しさに、ハマった

最初は、少額から始まった。
初心者なので当たり前だが、知識もないのに大きな額を張る度胸はない。
ところが、最初の年の夏の新潟の平場で、個人的事件は起こる。
三連複100円の10点買いが20万円となって戻ってきたのだ。

芝短距離だった(と記憶している)ので、時間効率について考慮すると、パチンコやスロットの比ではない。
ほんの1分10秒程度で、20万円という額が手元にできてしまったのだ。
しかも、元手は1,000円で。

加速度的に賭けるレース数が増えていく。
これは、今となってはまったく遅いし(おそらく)結果的には変わらなかった(かもしれない)が、初心者が陥る失敗のひとつだ。
買うレース数を増やすのではなく、数を絞って額を増やすべきだったのだ。

一進一退ではなく、1歩進んで4歩下がるように負けていく。
坂道を転がるように、負けていった。
夏にできた資金は、ジリジリとした暑さが去るころには、残暑の熱に負けるように、すっかり溶けきっていた。
それでも止まらず、平日の地方競馬の平場すら買い求めたのはこの時期だけだ。

結局競馬を始めて最初の年の年間収支は、マイナスで終わった。
最初の方にあった大きな払い戻しに気を大きくしてしまい、ダラダラと買い続け、しかもその「大きな払い戻しをもう一度」とド素人が臆面もなく望むものだから、目も当てられなかった。

唯一の幸いだったのは、コロナによりパチンコに行かなくなっていたことと、競馬が楽しすぎてソシャゲをほとんどしなくなったことである。

ただし、手元に残るお金は余さず競馬につぎ込んだ。
貯金をしなければならないという考えは、頭の片隅にもなかった
(正しくは、考えないようにしていた)

自分はいつ死んでも、それこそ明日死んでも構わない。
そんな一緒に暮らす家族に対してとんでもなく失礼な考えを持つようになっていたのは、いつからだったか。

ギャンブルで勝ち目がないままに負けが込み、性格・性質・生活は荒んでいく。
それでもご立派な虚栄心で外面だけ取り繕って、自分の中でその二面性を当たり前のように受け入れてしまった瞬間から、だったろうか。
そうやって自身の中での歪みがどうしようもなくなったころ、どうしても自分というものの実在を、認識したくなくなっていた。

40歳にして貯蓄はない
自身や家族に万が一のことがあったら生活が詰んでしまうことは容易に想像ができた。
なのに、何もできない、変われない。
もはや自身に関するすべてのことがストレスだった。


どこかに一発逆転の目が転がっていると、馬鹿みたいに毎日ぼんやりと夢想していた


経済的に困窮し、荒み切った内面をどこに出すこともできず、自分という存在が消えてなくなればいいと、本気でそう思いながら生活していたのである。
自分から消える勇気は、みじんも持てない愚か者であるにもかかわらず。

やがて、コロナでの自粛期間が終わる。
停滞した社会が元に戻ろうと、(形式上は)数年前と同じような経済活動が再開していくのだった。


続く

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