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演技を学ぶべき1000の理由

つくづく、演技するということから逃げてきたな、と思う。

別にそれほど喜ぶようなところでもないだろう、というところで大きなリアクションで嬉しさを伝えている妻を見て、ほー、あ、いや、これは俺もやらなあかんことやろ、と思ったのがその最初の気づきであった。

それは嘘をつく、ということとは全く違う。
あ、やっぱり全くは違わないかもしれない。
1の喜びを10に表現するのはやはり嘘かもしれない。
でも、1嬉しい時に1のリアクションでは相手に0.1も伝わらない、ということがある。
人の感覚には須く閾値というものがあり、一定以下の大きさの入力は知覚できないようになっている。
仮に自分の感情とその表現の大きさが食い違っていたとしても、こちらの感情と相手の受け取り方のレベルを合わせるのは嘘というよりは誠実な対応と呼ぶべきだろう。
相手に1伝えるために、10喜ぶことは嘘ではないということだ。

それは演技するということで、演技というのは自分のためにするものではなく、観客に何かを伝えるためにすることで、伝えるためには舞台に上がらなくてはいけない。
舞台に上がらなくてはいけない。

日常の中で舞台に上がる、ということをあまりにもおろそかにしてきたのではないかと思う。
これは体感的には女性の方が得意なのではないか、という気がしている。
それは周りを喜ばせる、という役割を期待されがちだからかもしれないし、女性のコミュニティ維持にはそのような能力が問われがちだからかもしれない。
よく言われることだが友人に会った時に大声で騒ぐ、というのはまああまり男性同士で見るものではない。
友人に会った程度であんなに嬉しいわけはない、と思う。
しかし、嬉しいなら嬉しいと言うべきで、伝わるように演技するべきなのだ。
あの叫びは、伝わりすぎるほどに伝わっているから。

そこを、恥ずかしい、嘘をついているようだ、自分はありのままでいたい、というような、未熟で尊大な自意識で、...ウッス、と言うのは不誠実なのだ。

おれの声が小さい、というのも、舞台に上がっていないからなのだ。
声の小さい役者はいない。
発言に責任を負っていない、観客の反応から逃げた結果が、この声の小ささで、それか、腹筋とかが足りないからかもしれない。
最近は子どもにもキレ気味に「なんて?」とよく言われる。
声を張れ、腹筋を鍛えろ。

広い意味ではブランディングというものもこの演技に含まれているように思う。
別に大したことのない商品、コンテンツでも、一貫したデザイン、言葉使いでその世界観を伝えることができる。
それはありのままではないし、虚構だし、何かを隠している、けど、観客に伝えることから逃げていない。

卑近な話をすれば、自分のYouTubeやTwitterで、「あえて」自然な感じでやっていますよ、カッコつけていませんよ、という振る舞いをしてしまっている。
いや、気づいてみればで、わざとじゃなくて、本当に、無意識で、ね。
そりゃ、オシャレなとこばっかり行ってるわけないし、高尚なことばっかり考えてるわけじゃないし、強い軸のある人間でもない、けど、他人に何かを見て欲しくてやってるはずで。
そこで見せ方や伝え方を気取らず、「自然に」やるというのは、ダサい、つまらない、センスがない、と言われた時に、まあ気楽にやってるだけなんで〜、という逃げ道を残しているだけなのだ。
本当は、舞台に上がって賢くてカッコよくてオシャレで面白いことを伝えたいのに、舞台の下にいるフリをしている。

日常のコミュニケーションにおいても、演技しないということは、伝える気はないけど感情を読み取ってほしい、という、8歳までしか許されない態度で、甘え。
ウケたいなら、おどけなきゃいけないし、慰められたいなら、泣かなきゃいけない。

しかしまあそれでも、こんなとこまで読んでくれている君たちは、ありのままの俺を、猫背で声の小さい俺を、認めて愛して抱きしめてくれ。
...ウッスしか言わんけど。

東大出てても馬鹿は馬鹿