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2/16 日記

2020年になって早くも1ヶ月半が経った。
年が明けてからnoteには何も書いてないがそれは特に言いたいこともなく過ごせているということで、良いことである。
しかしここらで何かをインターネットに書きつけておこうという気もしてきたので、特に書きたいことはないが勉強する気にもなれない帰りの電車で書き始めることにした。

ところでなんの気無しに冒頭で早くも年が明けて1ヶ月半が経ったと書いたが、時間が流れるのが早いという感覚はなんなのだろうか。
はやさとは時間あたりの変化で定義される量のはずだ。
一定時間にたくさんの距離を進む乗り物を僕たちは速いものとみなし、短時間で高いスキルを身につける人のことを成長が早いと褒め称える。
なんらかの変化量をそれにかかった時間で割って出てくるのがはやさということになる。

では時間の経つ速度とはなんだろうか。
1時間には1時間が流れ、1ヶ月半には1ヶ月半が流れるわけで、時間あたりの時間の変化量はいつだって1に等しい。
年の瀬に交わされる今年も早かったねの会話はただその1が大きいのか小さいのかを巡った無為な行いなのだろうか。

当然そんなことはなく、そこには物理的時間と主観的時間が存在している。
物理的時間の経過を主観的時間の経過で割って出てくるのが時間の経つ速度ということになる。
めでたしめでたし。

しかし今年は1年経つのが遅かったねというセリフはほとんど聞かない。
年末になれば今年も早かったねと言い、それに基づいて主観的時間の認識を改めることもなく、次の年にはまた今年も早かったねと言うのだ。
前言撤回、やはり無為な行いである。
愚かなり人類。
おれはそんなことにはならない。
今年の年末には、感覚的にぴったり1年でしたわと、物理時間の1年÷主観時間の1年がちょうど1になりましたわ良いお年を〜と挨拶をすることに決めた。
世界に環境に基づいて自己の認識を更新し続けることが生きるということだから。
毎年毎年予測を外し続けて平気な顔ができるほどプライドがないわけじゃないんだ。

今年はなんかこんな感じです。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

栗林より

東大出てても馬鹿は馬鹿