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終わりを惜しむ高揚感

平成最後の夏というのはよく聞いたけれど、秋や冬はあまり言われなかった。それだけ夏は特別で、人々の心に鮮烈に焼き付く季節なのかもしれない。

なくなっていくものや終わるもの、その最期を見送るのって、なぜかみんな好きな気がする。惜別の情、名残り惜しさ、ほろ苦さ、その中にちょっとした高揚感がある。

セカンドラインというジャズのジャンルがある。ニューオーリンズで今も行われている葬儀の風習で、葬列の最初に親族が並び、2番目の列にブラスバンドが続く。そこで演奏される音楽だからセカンドライン。YouTubeで「Jazz Funeral」(ジャズ葬)で検索するといっぱい出てくるが、葬儀なのに、高揚感がある。つまりこの感じ、きっと日本人だけの感覚じゃないんだろう。

僕にとって平成最後の夏は、子どもと過ごした最初の夏だった。7歳なんて、こないだ人生が始まったようなものなんだけど、カメラのシャッターを切るたびに、何かが終わっていく感覚を抱く。

多分、そこに自分の子ども時代を見ているのだろう。子どものころの夏休みって、本当に特別だった。もう戻らない季節なのを、今の僕は知ってる。彼にとっても、1年1年が終わっていく最後の夏。ついでに去年は妻が次男を妊娠していたから、親子三人で過ごす最後の夏でもあった。

ネオパン100という写真のフィルムがある。国産として最後まで残った唯一の黒白フィルムで、きめ細かさは世界最高とも言われる。同時に最も安いフィルムでもあったので、学生やアマチュア写真家にも愛用されたそう。色んな人にとっても、思い出の詰まったフィルムだ。

そのフィルムが、昨年生産を終了した。そのこと自体をどうこう言うつもりはなくて、でもせっかくだから、昨夏家族で妻の実家の東北に帰省する際、このなくなるフィルムをいっぱい持っていった。

いまどきフィルムで撮る意味なんてまったくない。だけど、モノクロフィルムは光とハロゲン化銀のシンプルな化学反応で現れるのがいい。その瞬間、そこに光があったことが刻まれているから。

お金よりも大切なものがあるとは思いますが、お金の大切さがなくなるわけではありません。