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「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と感情の蓋

意味がわからないことわざがある。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってやつだ。大辞林によると、

その人を憎むあまりに、その人に関係のある事物すべてを憎むことのたとえ。

だそうだが、それは知ってる。僕が問うているのはその意味じゃなくて、このことわざの意味は「教訓」なのか「共感」なのかということだ。

そもそもこのことわざは、江戸時代に権力を握って強引な民衆管理やら汚職やらを繰り返していた寺の僧侶に対する庶民の感情が元になっているそうだ。それに照らして考えてみる。

「あの寺の糞坊主、去年死んだおっ母さんの塔婆書いてほしけりゃ、余計に金払えって言ってきやがった」
「あらあら、弱ったわねえ」
「いっつもこれだ。何かにつけて金払えと。あの糞坊主見てると袈裟まで憎く見えてきちまいやがる」
「あんた、袈裟なんて憎んだってしょうがないでしょ。ただの布なんだから」

これが「教訓」。感情のない無機物を憎んだって不毛って話。だから意味としては「理性的であれ」くらいな解釈だ。僕はずっとこれだと思っていた。人間として社会生活を送る以上、感情に支配されずに物事は判断すべきだと。そういう意味でまさに「教訓」となる言葉。

それで次。

「あの寺の糞坊主、去年死んだおっ母さんの塔婆書いてほしけりゃ、余計に金払えって言ってきやがった」
「八っつぁん、そりゃ災難だな。あの坊主、うちの女房の葬式の時も二三言唱えてさっさと切り上げようとするからよ、そりゃないよって引き止めたら、タダの念仏はこんなもんだよって言いやがったよ」
「熊さんもかい! あの坊主、何かにつけて金払えと。あの糞坊主見てると袈裟まで憎く見えてきちまいやがる」
「その通り! 俺なんて寺の鐘の音まで憎く感じるよ」

これが「共感」。「あるある」とも言えるけど、そういうことあるよね!って感じ。人間として生きている以上、感情的になってその人に関係あるものまで憎らしく見えてくるのは仕方のないことという意味。感情的であることをどちらかといえば肯定している。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざは、これくらい真逆に解釈することが可能なのだ。

上で書いたように、僕は「教訓」と解釈していた。でもこのところ、「共感」でもいいんじゃないかと思い始めている。確かに感情というのはなかなかに厄介で、しばしば不具合を起こす。争い事も、だいたいが感情に起因する。袈裟を憎むくらいならかわいいもんだけど、その人の家族や友人を憎んだり、所属してる組織を憎みだしたら理不尽だ。戦争まであと一歩だ。戦争恐い。だけど、感受性ってのは感情的でないと鈍るんじゃないかなとも思う。

落語風の例文を書いてしまったけど、立川談志の有名な言葉で「落語とは人間の業の肯定」というのがある。欲望に忠実で、人間くさい生き方をする落語の登場人物たち。人間の業さえも肯定するから、落語は面白いのかもしれない。この業は、感情と読みかえることもできるだろう。感情の肯定。

たまに感情に従って行動すると、失敗することもあるけど、自分でも驚くような発見があって面白い。憎いは考えものだけど、嬉しいとか楽しいとか好きとか、あとは嫌いとか怒るくらいならいいだろう。感情を否定せずに、その蓋を少しだけでも開けておいたほうが面白い気がする。時々立ち止まってそれが人を傷つけていないか振り返るのを忘れなければ、それでいいのではないか。

こないだ『この世界の片隅に』を見て、感情の蓋を全開にこじ開けられたので、なんとなくこの話を書きたくなった。映画の感想はまた。


お金よりも大切なものがあるとは思いますが、お金の大切さがなくなるわけではありません。