祝・北海道大学新聞復刊

 かつてぼくが所属していた「北海道大学新聞」が復刊しました。おめでとうございます。

 北大新聞はライターとしてのぼくの原体験です。取材技術より文章技術より、口喧嘩大好きという変態的な嗜好をぼくに叩き込んでくれた昔の北大新聞のことを書こうと思います。

 と思ったのですが、ぼくは同じような文章を、いまはなき「PJニュース」というニュースサイトに書いていました。ネット上に残っていたキャッシュから、ここに再掲します。

 北大新聞が2011年を最後に新聞の発行を止め、翌年にサークルそのものが解散すると決まった際に書いたものです。ぼく自身の北大新聞での経験、北大新聞のスタンスと役割、そして北大新聞がテーマとしてきた学生の自由・自治の問題とそれをめぐる北大の状況。そんなものを総覧する記事です。

 ただし、ここで書くような「北大新聞」を新たな北大新聞の人たちに押し付けたくはありません。一度廃刊になり、いろんなノウハウが途切れたと思います。そのため復刊を果たした現役生は苦労しただろうと思いますが、せっかく途切れたのだから、過去の「北大新聞」に縛られることなく自由に楽しく、いまの状況に合った新聞を作ってほしいと思います。

 ただ、過去の権力と学生の利益についての「北大新聞」の考え方は多くの人に知ってもらいたいし、現在の大学における「カルト対策」においても重要だとぼくは思っています。また、この記事は当時「市民メディア」のダメな部分も意識して書きました。そういったテーマの読み物として見ていただければと思います。

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北の祖国よさようなら=北海道大学新聞の解散に寄せて
2011年12月19日 08:55 JST
PJニュース

【PJニュース 2011年12月19日】北海道大学で「北海道大学新聞(北大新聞)」を発行する北大新聞会が、2012年3月で解散することが決まった。1926年に創刊されたが2007年に休刊。たった1人の現役会員が復刊を目指したが、2011年4月の復刊号の発行後も部員は増えず、復刊号が“最終号”となった。10年ほど前まで同会に所属していた者として、同会が果たしてきた役割を振り返る。

■「記事叩(たた)き」という伝統
私は1992年、北大に入学すると同時に北大新聞会に入会した。新聞会では、取材や記事執筆だけではなく、紙面の編集、レイアウトもすべて会員が手作業で行っていた。ブランケット判の新聞サイズの割付用紙に手書きで記事をレイアウトする作業は、毎号(当時は月刊で発行)深夜まで行われた。

新聞を発行する上で当然必要となるこれら作業のほかに、「記事叩き」と呼ばれる伝統があった。書き上げた原稿を記者がほかの会員たちの前で全文を音読し、ダメ出しを受けるというものだ。誤字脱字や文法、構成についてだけではない。むしろ中心は、記事の中に含まれる記者の視点や評論内容についての議論。往々にして、記事のテーマ(学内の諸問題や出来事など)をめぐる周辺議論や、記事に直接書かれていない記者自身の考え方をめぐる議論にも及んだ。

サークル会館の閉館時間になっても終わらず、居酒屋などに場所を移して夜中まで続けることも珍しくなかった。これを受けて記者は原稿を書き直し、次回の例会でまた音読して「叩かれる」。まるで、新聞サークルではなく討論サークルであるかのような会だった。

■甘ったれた「市民記者」とは違う
新聞会では、「この原稿に書かれているのはオレの個人的意見なんだからとやかく言うな」などという開き直りは基本的に許されなかった。全会員が認めるまで、同じ原稿に対して何度も「記事叩き」が繰り返される。しかし意見の一致が必須なわけではない。「意見は違うが、少なくとも原稿の文章は筋が通ってはいる」と全会員が認めることで、原稿は「通る」。

かつてオーマイニュースというニュースサイトがあった。“市民記者”というアマチュア記者たちが記事を執筆しており、中には編集担当者に原稿をいじられることを異常なまでに嫌う者もいた。北大新聞会は、同じアマチュアでもこの点で対照的だった。会員同士が他人の原稿に口を出しまくり、原稿に直接書かれていない記者の考え方までうんぬんされた。

しかも、オーマイニュースのように編集者が原稿を直してくれるなどということはない。新聞会では、ダメ出しをされて自分で原稿を直す。直すことに納得がいかないなら、原稿にケチをつけている会員に反論して言い負かすしかない。

北大新聞会は、何人ものメディア関係者を輩出している。みな、こうした「記事叩き」の伝統の中で鍛えられた。なぜか私のようにフリーライターになった者は珍しいようだが、新聞社の政治部で出世している者もいれば、テレビ局に入った者もいる。一人、新聞社に入って間もなく誤報を飛ばして謹慎処分を食らったうっかり者もいるが……。

■管理されていく学生たち
私が北大に入学した前年の1991年か、あるいはその前の年か。「北大演劇研究会(演研)」が大学の敷地を占拠して小屋を建てた。そこで、芝居の公演をしようとして、大学側から強制撤去される騒ぎが起こった。私が入学した後も、恵迪寮生が学内の寮の庭で、勝手に石造りの露天風呂を建造して大学と対立した(恵迪寮は大学による両運営を排除し、自治会が自治を保っていた)。北大祭関連の実行委員会は北大祭開催期間中の施設利用時間をめぐって大学と対立した。北大新聞は、こうした出来事や問題を時事記事として報じるだけではなく、評論記事においては常に学生の自治や自主活動を重視するスタンスをとってきた。

私の入学前後までは、学生と大学の対立や学生側のユーモラスな抵抗行動などが、まだ多少は見られた。これはそのまま北大新聞の“ネタ”でもあった。

しかしやがて、不法占拠による「青テント公演」が夏の風物詩だった北大演研は、大学と調整し友好的に公演を行うようになった。北大祭は、1・2年生が中心の旧教養部の使用を24時間から「夜間ロックアウト」にすることを受け入れ、私が大学を中退した後は、出店での酒の提供まで禁止になった。学内では「中央ローン」と呼ばれる芝生で、北大生が七輪を囲むジンギスカン・パーティ(通称ジンパ)をする姿があったが、これも禁止された。

酒とジンギスカンの自由がなくて、いったい何のための北大か。本来なら、大学の事務本部に生のラム肉とサッポロソフトの5リットルボトルが投げ込まれてもおかしくない事態だ。しかし、大学による学生管理を学生が受け入れてしまう空気が、北大生全体に蔓延(まんえん)していた。北大新聞会はまだ比較的、学生の自由や自律を語る歴史を受け継いでいた方だったと思う。

■政治セクトも弱体化
大学による学生管理が強まっていただけではなく、学生の側も自ら考える力をなくしていた。

1999年頃だったか、北大新聞は、共産党系学生組織の民主青年同盟(民青)関係者から提携を持ちかけられた。ちょうど国立大学の独立法人化が検討されていた時期で、それに反対するキャンペーンを一緒にやりたいというのだ。

民青は北大において、共産党系組織であることを明示せず、時には民青という名前すらも出さずに新入生歓迎イベント等を開催することがあった。私から見れば、少なくとも勧誘方法については統一協会(統一教会=世界基督教統一神霊協会)と同等に「問題ある団体」だった。当時、北大では、共産党系組織以外に革マル派も名前を伏せて活動していた。

北大新聞は、政治セクトにはかかわらないことを信条としていた。だから民青との提携など最初からあり得なかったのだが、「おもろいから会ってみよう」ということで、会談の場を持った。具体的にどのような提携を持ちかけられたのか、いまではよく覚えていないが、ある程度話を聞いた後でこんなやり取りをしたことだけ、はっきり覚えている。

藤倉「ところで、大学の独立行政法人化って、いったい何がいけないんですか?」

民青関係者「……。そのへんはぼくもまだ勉強不足で……」

左翼学生すらも、もはや「理論武装解除」状態。“上”から言われたことをただ実行しているに過ぎなかった。

■サークル公認制度への抵抗
「学生の自治・自主活動問題(=大学による学生管理問題)」は、北大新聞が紙面で一貫して提示していたテーマだった。また、メディアとしてだけではなく、いちサークルとして「自由に活動する」ために、紙面とは別の部分で静かに抵抗してきた歴史もある。

北大では、公認サークルについて以下のようなルールが設けられていた。

・サークル会館の利用は夜10時まで
・定期的に決められた施設利用時間以外の利用は事前許可制
・学外に拠点を持つ団体は公認しない

これでは、深夜まで作業をする北大新聞会は、満足に活動できない。こんな条件下で満足に活動できるのは、授業に一切出ていなかった私のようなクズ学生だけだ。

そこで北大新聞会は、私が入会する以前から長年にわたって学外にアパートを借りてアジトにしていた。ここで24時間いつでも作業を行うことができた。広大な北大の敷地の原生林を抜けて行かねばならないサークル会館を利用するのは不便でしかなかったが、「活動実態があることを大学に示す」ためだけに、定例会だけはサークル会館を利用した。

新聞会のサークル公認の是非にかかわるため、「ボックス」の存在は会内のトップシークレットだった。部外者をそこに招くことはなく、存在自体が秘密にされていた。新入会員が入っても、1カ月程度の活動を経て、問題ない(政治セクトや統一協会と関係がない)人物であることが確認されるまでは、「ボックス」の存在は知らされなかった。

■権力と異分子の両方から学生の利益を守る
北大新聞は、紙面においても自らのサークル運営においても、「サークル公認制度」のような学生管理システムに批判的だった。にもかかわらず、北大新聞会は自身が公認サークルとして大学の管理下にあり続けることにこだわった。

それは、サークル公認制度において「類似の活動を行うサークルを複数公認しない」というルールがあったからだ。つまり、統一協会系の「北大学生新聞」や左翼セクト組織に「北大公認の新聞」の地位を渡さないためにも、北大新聞会は「公認サークル」であり続ける必要があったのである。

私が在籍していた時期には、新入生の個人情報を大学から提供してもらうことで、入学予定者全員の自宅に北大新聞を郵送できていた。サークル公認制度を批判しながら、公認サークルとしての特権を享受しているのだから、完全なダブル・スタンダードだ。

しかしこのダブル・スタンダードが、カルト宗教や政治セクトに対するストッパーになっていた。入学予定者に郵送される「北大新聞」には必ず「統一協会にご注意を」といった警告記事を大々的に載せていた。

当時、北大は「国立大学が特定の宗教の活動を制限するわけにはいかない」「学生といえどもいい大人なんだから、カルト対策くらい自己責任でやれ」という態度で、まともな対策はとっていなかった。だから、北大新聞の役割は決して小さくなかった。大学が学生の自由を奪うことは認めないが、同時に反社会的集団の自由にもさせないという明確な意志が、新聞会にはあった。

新聞会は、大学における権力と異分子の両方から「学生の利益を守る」ことを目指すメディアだったのである。

■北大新聞なき後の世界
私は大学を中退して10年以上になる。しかし「カルト問題」というテーマで取材をしていることから、大学生を勧誘するカルト的集団の問題に触れる機会がいまも多い。

全国の大学がカルト対策に本腰を入れ始めたのは、2006年に「摂理」の問題がメディアをにぎわせて以降のことだ。韓国人教祖・鄭明析(チョン・ミョンソク)が多くの女性信者と肉体関係を結んでいた「摂理」が、日本の全国の大学でも学生を偽装勧誘し多くの学生が被害にあっていたことがわかったのだ。

現在、各大学は連携して情報交換や対策を行っている。しかし所詮は組織管理者の都合で行われるもの。一部とは言え、それ故の歪みや独善性も見られる。時折、日本国憲法すら理解できていない大学が暴走する。

例えば岡山大学では、事前申請があったサークルに「岡山大学公認サークル」と書かれた腕章を渡し、腕章のない学生が勧誘することを認めないという形でカルト対策を行っている。千葉大学では、公認サークルの勧誘方法と期間を定め、それ以外の勧誘を認めない。いずれもカルト対策としての効果はありそうだが、事実上、「カルトではない非公認サークル」の活動まで大きく制限する手法であり、「結社の自由」はないがしろだ。

北大でも2009年、学祭の実行委員会が、北大祭における学生の宗教・政治活動を一律に禁止する規約を設けた。信教・思想信条・表現の自由を奪うものだ。これは大学が学生側である実行委員会にはたらきかけた結果だが、同時に、北大文学部の宗教学者・櫻井義秀教授も、学生側から規約案について助言を求められ「問題ない」とお墨付きを与えた。宗教学者が宗教活動の一律禁止を「問題ない」と言い放つのだから、すごい話である(※)。

櫻井氏は、この年の夏、カルト対策に取り組む他大学の関係者たちも集まったシンポジウムで、「(宗教活動を)禁止したということはない」と公然とウソをついた。櫻井氏は摂理問題が公になるよりはるか前から、大学におけるカルト対策の必要を説いてきた。その功績は限りなく大きかったが、この一件では見識と良識のなさを露呈した。

北大新聞は2007年にすでに休刊し、当時は活動を停止していた。「カルト対策」を名目に大学や学生組織が学生の自由を奪っても、櫻井氏のような欺瞞(ぎまん)的な「専門家」がそこに介在しても、北大新聞が批判や検証を加えることはなかった。

学生から自由そのものを奪えば、カルトも鳴りを潜めるだろう。しかし、そんなカルト対策に何の意味があるのか。権力者や組織に自由を奪われて生活する場所では、学生たちはカルト的な集団の欺瞞に抵抗できるだけの自律心をむしろ失っていくのではないかと思う。

■北朝鮮にカルトはない
カルト問題に取り組むある弁護士が、時折こんな言葉を口にする。

「北朝鮮にカルトはない」

極論ではあるが、自由のない場所にカルトは存在しえない、という意味だ。その弁護士の言葉を借りるなら、カルト問題とは、

「自由で民主的な社会における生活習慣病のようなもの」

なのである。

2000年春、私は留年と休学を重ねた後、自力で「脱北」し、津軽海峡を渡った。

いま、フリーライターという自由すぎる身分になって、不自由な北の祖国を思う。くだらない大学だったが、北大新聞会に出会えただけ私は幸せだった。大学で学べないことを学ぶことができた。単純な反権力志向ではなく「大学が学生の自由を奪うことは認めないが、反社会的集団の自由にもさせない」という北大新聞会の信念は、いまでも私がカルト問題を考える上での基本的な考え方になっている。

85年間続いた北大新聞会と仲間たちに感謝しつつ、最後の会員となるであろう北島知明さんをねぎらいたい。

※ 北大祭全学実行委員会はその年の北大祭終了後、学内の一部自治会の批判を受けて問題の規約を撤廃した。

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