カルトの定義をめぐるあれこれ

■基準は「人権侵害」

 たまに大学で「カルト」について講義をすることがあります。カルトの定義を説明する時、スライドでこの2つの写真を見せるところから始めるようにしています。

1993年『エル・カンターレ聖夜祭』より

2010年教団内ビデオ『文殊菩薩との対話』より

 1枚目の写真で「見るからにイカれていて、カルトっぽいと感じる人が多いかもしれません。でも、これを根拠に幸福の科学をカルトと呼ぶことはできません」と説明します。2枚目の写真では、「服装はイカれていませんが、これは教祖が妻の霊の言葉と称するものを語りながら妻を信者たちの前でこき下ろしている映像。名誉毀損も人権侵害です。これがカルトです」と説明します。見た目や教祖の行動の異常さではなく、人権侵害こそが「カルト」たるゆえんだという話です。

 この2枚の写真の比較は、印象としての異様さは「カルト」の条件ではないですよという象徴的な例にすぎません。実際には、幸福の科学は90年代、講談社に対する電話・FAXテロや訴訟の乱発、批判者への高額訴訟といった無茶苦茶な反社会的行為を繰り返していました。1枚目の写真の時期にも立派なカルトでした。

 現在、カルト問題に取り組む人々の間で共通認識にとなっている「カルト」の定義は、「違法行為や人権侵害を行なう集団」というようなものです。そんな大雑把なのかと思われるかもしれませんが、このくらいがちょうどいいとぼくは思っています。

 もともとはラテン語の「熱狂」を意味する単語が語源とも言われ、キリスト教世界では異端の小規模なキリスト教系集団を指すこともあれば、一般的には狂信的で異様な集団を指す蔑称のような使われ方をすることも多々あります。こうしたものと区別するために、深刻な人権侵害が見られる反社会的集団について「破壊的カルト」という表現を使う人もいます。

 いずれにせよ、基準は「違法行為や人権侵害を行なう集団」という言葉で表される反社会性です。しかしそれでは、全く知らない人には具体的に何なのかわかりにくいでしょう。

 そのため、カルトを語る際には定義そのものよりも、カルト問題とはどういう問題なのかということを延々と語らなくてはなりません。

■既存宗教との関係

 「カルト」を「新興宗教」とダブらせてイメージしている人も多いと思います。しかし「カルト」であるかどうかは、伝統の有無や、正統であるか異端であるかは関係がありません。

  日本では、キリスト者が統一教会やものみの塔(エホバの証人)の問題にキリスト者が熱心に取り組んでいます。日本のカルト問題への取り組みはキリスト者が切り開いてきたと言って過言ではなく、その功績は果てしなく大きなものです。

 しかし彼らの中には、正統派を自認する側から見た「聖書を流用する異端集団」というカルト観を表明する人たちがいます。感情的に仕方ないことなのかもしれませんが。

 2000年代初め頃までは、こうした特定宗教のエゴが、非クリスチャンも含めた集まりで恥ずかしげもなく主張される場面もありました。現在でも、『クリスチャントディ』誌をめぐる揉め事を見ると、日本基督教団側が「カルト」を糾弾したいのか「異端」を糾弾しているだけなのかよくわからない状態に見えたりします。

 教義上の「正しさ」はクリスチャンにとっては重要なことなのでしょう。しかし日本で人口の1%に満たいないと言われる日本において、多くの人々が巻き込まれる社会問題をクリスチャンの都合で語られても困ります。教義論争は、社会を巻き込まずに宗教同士だけで勝手にやっていればいいと思います。

 反カルト運動がクリスチャンの論理に支配されていたというほどの実感はありませんが、従来からキリスト者の貢献が大きかっただけに、随所で目立ちました。そして、この側面は非クリスチャンから長らく疑問視されてきました。

 90年代にオウム真理教、顕正会、浄土真宗親鸞会、法の華三法行、ライフスペースなど、「非キリスト教系カルト」の問題も重視されるようになり、キリスト者的な感覚だけではカルト問題をフォローできないことは、誰の目から見ても明らかでした。

 統一教会問題については、1987年に全国霊感商法対策弁護士連絡会が設立されています。霊感商法被害等について法的に被害者を支援する弁護士たちの組織で、もちろん基盤となっているのはキリスト教的な価値観ではなく法律や人権です。95年には、地下鉄サリン事件後、現在の日本脱カルト協会(JSCPR)の前進である日本脱カルト研究会(JDCC)が設立されます。

 こうした場で、仏教者などキリスト教以外の宗教者、弁護士、研究者、一般的な意味でのカウンセラー、そして被害者、脱会者、信者の家族といった当事者が交流しながら議論が洗練されていくにつれて、特定の宗教のエゴからはっきりと切り離された「カルト観」がスタンダードになっていきました。不思議と、カルト問題に取り組もうとする仏教者については、「正統派」を自認する仏教の教義を振りかざしてカルトを批判するということが全くと言っていいほど見られません。

 もともとキリスト者も、単なる「異端狩り」のためだけにカルト問題に関わっていたわけではなく、教義論争だけをしていたわけではありません。信者の人権に関わる被害への問題意識を強くもっており、「カルト問題は人権問題である」という認識は昔からすでに確立されていました。その点でキリスト者のエゴ的発言が比較的目についた時代も含めて、「反カルト運動」はブレてはいません。

 また、現在の「反カルト運動」にも、多くのキリスト者が関わり貢献しています。この点でも、キリスト者の問題意識が単なる「異端狩り」でないことは明らかでしょう。

 「違法行為や人権」というと漠然としているような印象を受けるかもしれませんが、ここには「特定の宗教の価値観に基づくものではない」という非常に重要な意味が含まれています。伝統ある集団であろうが「正統派」であろうが、そこに違法行為や人権侵害があればカルトです。

■カルトは宗教とは限らない

 そもそもカルトは宗教とは限りません。

 これはかなり昔から確立されていた考え方で、日本語訳が1993年に出版されたスティーブン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』では、「宗教カルト」のほか「政治カルト」(政治団体など)、「商業カルト」(マルチ商法など)、「教育カルト」(自己啓発セミナーやスピリチュアル講座の類)といった調子で細分化して定義していたりもします。

 日本において、形式上は宗教ではない集団の「カルト問題」として有名なのは、X JAPN のTOSHIがかつて広告塔を務めた自己啓発セミナー団体「レムリアアイランド」(後にホームオブハート、現在は株式会社コンフォート等)などでしょうか。この団体に限らず、「自己啓発セミナー」という分野自体、カルト問題の取り組みの中では長らく問題視されています。

 カルト問題への取り組みの中で問題視される具体例を見渡すと、宗教であれそれ以外であれ、何かしらの強烈な信念のもとに集団の個々のメンバーの財産、労働力、性が収奪され、心身の健康、自由、人としての尊厳などが踏みにじられ、またメンバー自身が他者の人権を侵害するような行動を取るという構造が共通しています。メンバーがその集団の信念を正しい、価値がある、それを捨てれば不幸になるなどといった感覚で強く強く信じているがゆえに、外形的には「強制」されていないのに自らそこに入り活動を続けているかのように見えてしまうという側面も、ほぼ共通しています。

 メンバーをそのような状態にしてしまう様々な手法や仕掛けがカルトの中にはあります。たとえば正体を隠した偽装勧誘などで、勧誘相手に抵抗感を抱かせないようにしながら親密になり、後に引けない状態になってから宗教にからめ取っていく手法もそのひとつです。直接的に脅してカネを出させるのとは違い(そういうケースもありますが)、教団の指示に逆らうと地獄に落ちるだの当人や家族が不幸になるだのといった教義を継続的に反復的に学ばせ信じさせた上で、献金や物品購入を推めたり無償労働をさせるなどの構造もそうです。その場で脅すような言葉を使うことはせず、拒否すれば不幸になると本気で信じている恐怖心につけ入るわけです。

 しかし、そもそもその恐怖心はその前の段階で集団側が作り出しているものです。同じように、メンバーが集団に疑問を感じても批判したり脱会したりしにくい心理状態になりがちな背景にも、こうした構造があります。

 こうした構造を社会心理学の分野で説明しようとしているのが「マインド・コントロール論」です。これについては、いろいろややこしいのでここでは省きますが、いずれにせよ、「信者が自分でそれを選んだんでしょ?」「わかってやってるんでしょ?」といった自己責任論的な考えでは認識できない問題構造がカルトにはあります。

 「カルト問題」に取り組む人々は主にこうした特徴を持つ集団を想定しています。しかし、こうした構造を作り上げる具体的な手法は集団ごとに違いますし、信者活動の非常に多岐にわたる場面にこの構造は張り巡らされています。そのため、一般論的な定義として確定的な文言を組み込むことができません。

 そのため表現としては「違法行為や人権侵害を行なう集団」という定義に集約されています。ぼく自身は「違法行為や人権侵害を行なう精神性の強い集団」と表現したりもします。

■思想ではなく行為の問題

 「カルト」とは直接には思想の内容ではなく実際の有害な行為を問題視する概念です。このことは「違法行為や人権侵害」というカルト定義から自明だと思うのですが、案外と、そこを理解してもらえない場面が多々あります。

 宗教を例に取るなら、信仰しない者は救われない、地獄に落ちる、といった類の思想や教義は、カルト視されていない宗教にもあります。教義の中に矛盾しているように見える部分があるなんてことも、カルトに限らず宗教にはよくあることでしょう。もともと宗教は科学ではないので、荒唐無稽な教義はいくらでもあります。儀式などが部外者から見て奇異とも思えるものもあります。

 それを理由に「カルト」と呼んでしまうなら、宗教は全てカルトだということになります。もちろん、宗教全てを否定しても構わないとは思います。そもそも神や霊やあの世なんて存在しません。それを存在するかのように人々に信じさせるようなものは、世の中から消えたほうがいい、あるいは、そんなものに頼らずに済む社会になったほうがいいと、ぼく自身も思います。

 しかしそれは「カルト」かどうかとは別の話です。教義や思想の内容を理由に「カルト」を定義してしまうと、信者の社会生活、家族関係、財産、健康などが破綻するレベルの問題である現実的な「カルト問題」が何なのか、輪郭がぼやけてわかりにくくなります。いかに荒唐無稽な教義でも、文字通り「信じる」「信じさせる」だけで行動が伴わなければ、こんな問題は起こりません。イワシの頭は、拝もうが食べようが肥やしにしようが、所詮はイワシの頭です。

 宗教以外も同様です。たとえば集団の内部に対してでも外部に対してでも、違法行為や人権侵害を伴う左翼(あるいは右翼でもいいんですが)集団があったとして、カルト問題の文脈で問題視されるのはその人権侵害の部分です。左翼なのか右翼なのかといった政治思想そのものの是非は、少なくとも「カルト問題」ではありません。「正しい思想を持つ集団はカルトではなく、間違った思想を持つ集団はカルトである」といった判断基準は、カルト定義の中にはありません。

 一方で、ややこしいことに、思想が一切度外視されるわけでもありません。人権侵害を正当化し、むしろよいことだという信念すら信者に植え付ける根拠となるのが、その集団の思想です。実際の行為と切っても切り離せない場面が多々あります。

 たとえばオウム真理教であれば、現在、アレフやひかりの輪といった残党集団に対して公安調査庁などが、麻原信仰を維持しているか否かを基準に評価しています。この点だけを切り抜いて「思想では判断しない」という立場を取ると、「麻原を信仰していようが殺人教義があろうが具体的行為がなければ問題ないはずだ」となりますが、実際は違います。オウムの場合は麻原が示す教義に基づいて実際に殺人や無差別テロを実行済みです。しかもアレフやひかりの輪は、旧オウム真理教の幹部やメンバーが集団を引き継いでいるという「人」の連属性もあります。麻原信仰を単なる思想としてだけ捉えることは難しいでしょう。何の危険性もない集団や集団を離れた個人が「麻原好き」と考えているだけというような意味での思想として見ることはできません。

 とはいえ、麻原信仰の有無にばかりこだわって、ほかの側面についてアレフやひかりの輪の実態を洞察する姿勢が疎かになっては意味がありません。特に、表向き麻原信仰を捨てたかのように見せかけながら、オウムや麻原を連想させるこまごました設定を用いているひかりの輪については、そのような姿勢では評価を見誤ります。麻原信仰の有無は重要ですが、そこに一点集中すべきではないでしょう。

 いずれにせよ、教義の問題が意識されるのは飽くまでも問題行為とセットになるケースです。「統一教会などの聖書解釈が正しいかどうか」「オウム真理教における原始仏教解釈が正しいかどうか」「幸福の科学の霊言は本物かインチキか」といった教義論争だけであれば、カルト問題にかかわる議論ではありません。そこにこだわる人たちだけでやっていればいいと思います。

 幸福の科学の大川隆法さんだって、仮に何の人権侵害もなく、ただ荒唐無稽な霊言を発表しているだけなら、おもろいイタコ芸人のおっさん(61歳)にすぎません。

■カルト、カルト的、カルト性

 実際問題、どのような質・度合いの人権侵害がどのような手法で行われているかというのは集団ごとに違います。何か新たな問題が明らかになるたびに細かい定義を追加しているとキリがなくわかりにくくなるし、団体ごとに事情が違うので矛盾も生じます。これも、カルト定義が「違法行為や人権侵害」という表現に集約されていった理由でしょう。

 そのため、特定の団体を「カルト」とみなすか否かの境界線をハッキリ設定することはできません。山口貴弁護士などは、「カルトか否かはグラーデーション。どのくらい濃いグレーなのかという問題だ」といった表現をします。そのため、特定の団体について「カルト」ではなく「カルト的」「カルト性が強い」といった言い回しが用いられることもあります。

 日本脱カルト協会では、「集団健康度チェック目録」というものを作成しています。114の項目それぞれについて0~3の4段階で評価し、合計ポイントから集団の「健康度」を総合的に捉えようというものです。

 「カルト的」「カルト性」「健康度」など用いられる表現は様々あるものの、いずれも「カルト」とは質や度合いの問題として捉えられています。

 そうなると、解釈次第で「あれもカルトでは、これもカルトでは」という調子で、非常に広範囲のものが含まれてきそうです。それはそれでいいと思います。本当に「カルト問題」に共通する問題構造があり、そういう位置づけで語る意味があるのであれば。

■何を語るための言葉なのか

 カルトという言葉の定義は、このように柔軟で、その気になればかなり幅広く捉えることもできます。そのため、定義だけではなく「何のためにカルトという概念を使うのか」が重要になってきます。それを踏まえずにカルトを語ろうとすると、無尽蔵に対象の範囲が広まっていって、「カルト」というカテゴリーが意味をなさなくなります。

 人が人を支配し、あるいは人が人に依存し、その関係性の中で集団のメンバーの人権が侵害されたり集団のメンバー自身が他者の人権を侵害したりするという構図は、人間社会の中にかなり幅広く存在しています。暴力団が「カルト問題」として取り上げられることは今のところほとんどありませんが、ぼくは共通点がないわけではないとは思います。

 ただし暴力団についてはもともと単独のカテゴリとして社会問題化しており、法律や条例で規制するなど対応が行われています。その対応自体が暴力団関係者の人権を踏みにじっている面もあるので、対応が正しいかどうかは別問題ですが、いま敢えて暴力団の問題を「カルト」とカテゴライズすることに意味があるかと言えば、あまりないような気がします。

 一方、「カルト問題」については、「信者の自己責任」論で片付けられがちだったり、「信教の自由」という建前からメディアも行政も触れたがらない傾向もあったりして、その問題や問題の構造が社会から十分に認知されていない面があります。被害者本人が自己責任論的な後ろめたさから、被害を主張せず泣き寝入りしがちだったりもします。そもそもカルトで疲弊しきった脱会者が、脱会後にカルトを公然と批判したり裁判を起こしたりする余力を持たないケースも少なくありません。2世問題となるともっと複雑で、親子関係の問題なのか宗教団体の側に責任があることなのか、多くの事例をある程度詳しく見聞きしている人でないとわかりにくかったりします。

 ともすれば、こういう形で社会から置き去りにされがちだった問題を、一定のカテゴリーとして位置づけ対応し、社会に訴えていこう。そういう問題意識から使われてきたのが「カルト」という言葉です。

 仮に被害者側に何か至らなさがあったとしても、それにつけこんだり、あるいは被害者に至らなさを発揮させるように誘導していく集団が存在することは間違いありません。それが問題視されず放置されていいわけがありません

■「カルト」と「カルト問題」の違い

 特定の団体を「カルト」と呼ぶことと、「カルト問題」に取り組むこととは、重なる部分もありますが少し違います。「カルト」は集団を指す言葉で、「カルト問題」は具体的な被害の存在や構造を示す言葉です。現在の反カルト運動が重視しているのは、後者であるようにぼくには見えます。

 カルト問題に取り組む人々は、机の上で言葉遊びや思考ゲームをしているわけではありません。被害を受けた人や家族がカルトに入ってしまったという人から相談を受けた宗教者やカウンセラーが相談に対応し、法的に対応できる部分は弁護士が対応し、カルト経験者が自身の体験をもとに「カルト問題」の構造を示し、研究者がそれを研究したりジャーナリストが記事にして世に訴えるといったことが行われています。そこでは皆、常に、いまそこで起こっている問題に立脚して「カルトとは何か」について考え、議論してきました。いま現在もそうです。

 ぼくは「反カルト運動」という言葉に対して悪い印象はないのですが、その目的や性格を厳密に表すなら、「反カルト被害運動」とか「カルト被害救済・予防運動」と呼ぶべきなのでしょう。特定の団体をカルトと呼ぶことより、明らかになった問題に対処することを第一目的とした運動です。

 たとえば、「特定の聖職者(あるいは特定の寺や教会など)が、信者の人権を侵害し被害を生み出している」という相談事例があったとします。反カルト運動の関係者の間で「じゃあキリスト教(あるいは仏教)はカルトだな」などという議論は行われません。もちろん「キリスト教(あるいは仏教)はカルトじゃないのだから、そんな相談事例を持ち出すな」などという意見も出ません。その問題をどう捉えどう対処すべきかがまず課題になります。

 極論すれば、集団として「カルト」とみなさない場合であっても、その集団の中に局所的な「カルト問題」は起こり得ます。だから「カルト」と「カルト問題」は、文脈が全く違う別物です。

 もちろん、「カルト問題」的なものが継続的に多く報告されたりあまりに深刻だったりして、その集団の局所的な問題にとどまらない構造的な問題だと認識されれば、「カルトと呼んで差し支えないだろう、いや積極的に呼んで社会に注意喚起すべき」という感覚が自然とコンセンサスになります。その典型例が、オウム真理教や統一教会でしょう。

■特定集団への対抗運動ではない

 カルト認定よりカルト問題への対応が主目的だということは、反カルト運動のそもそもの目的は特定集団への対抗活動ではない、ということでもあります。

 統一教会、オウム真理教、摂理、顕正会、浄土真宗親鸞会、幸福の科学等々、相談事例や問題の指摘が多い場合は、個別の被害・相談事例への対処だけではなくその集団そのもののプロパガンダやメディア露出などについても対処せざるを得ません。それは外見的にはどうしても、特定集団への対抗運動のように見られがちになってしまいます。外部の人から見えやすい活動は、たとえば日本脱カルト協会や全国霊感商法対策弁護士連絡会、あるいは「○○被害者の会」「○○家族の会」など、特定団体を名指しした被害者団体等などが声明文を発表したりどこかに申し入れを行うといったものなので、なおのことでしょう。

 しかし日本脱カルト協会も全国霊感商法対策弁護士連絡会も、上記のように具体的な被害についての救済・予防を議論したり実践したりする人たちの集団です。被害者団体や家族の会も同様に、当事者同士が互いに支え合ったり情報を共有したりする互助的な活動や被害予防のための啓発活動を主としている団体です。いずれも、具体的被害への対応という点に立脚点していることに変わりはありません。

 もちろん、こうしたスタンスには個人差もあります。「反カルト運動」は組織的に統制された運動ではなく、個々の会員の考え方まで統制されてはいません。問題に取り組む人が集まる場所で勉強し議論し、それぞれの立場でカルト問題に取り組む人々の活動の総称が「反カルト運動」です。個別に見れば、対抗運動的な色合いが強いスタンスの人もいるでしょう。しかしれは人それぞれの振れ幅というレベルのものであって、反カルト運動のコンセンサスではありません。

 たとえばぼくや、やや日刊カルト新聞はしばしば、特定のカルト団体をおちょくったりします。しかし「反カルト運動」全体としては、カルトをおちょくる運動はしていません。

 カルトの側にしてみれば、反カルト運動を自分たちが生み出している被害に対応するものだと認めたくはないでしょうから、何かしらの理由で自分たちを敵視する「対抗運動」だとみなしたがります。それが間違った認識だとわかっていたとしても、「そういうことにしておく」でしょう。

 逆に反カルト運動の何かしらを見て支持を表明してくれたりする人の中にも、反カルト運動を「カルトをぶっ潰そうとする対抗運動」だと勘違いしているように見えるケースもあります。

 カルトに道理を説いても無駄ですが、できれば反カルト運動に興味や支持の気持ちを抱いてくれる人には、反カルト運動とは特定集団への対抗運動ではなく被害の救済と予防のための運動なのだという点をしっかり見てほしいと思います。

■やや日刊カルト新聞のカルト観

 やや日刊カルト新聞は、品性の部分では「反カルト運動」のあり方を踏襲していませんが、「カルト」や「カルト問題」に対する捉え方は踏襲しています。

 やや日刊カルト新聞がとくだんカルトの定義を掲げていないことから、カルトの定義が不明確だとか、気に食わない団体をカルト認定して嫌がらせをしているなどと言われることもあります。しかし実際には、一部の例外を除いてそもそも「カルト認定」などしていません。

 やや日刊カルト新聞では、創刊当時から「本紙について」で、以下のように謳っています。

「カルト」としての社会的評価が定着している団体はもちろんのこと、そうとは言い切れない団体についても、カルト問題あるいは宗教全般の問題について考える上で有意義であると記者が判断した場合は記事にします。

 「カルト」を定義し、それに当てはまる団体だけ取り上げるメディアではありません。目的は「カルト」認定ではなく「カルト問題」について理解を深めてもらう報道をすることにあります

 「いじるジャーナリズム」という手法を「対抗行動」と捉える人がいるかもしれません。その側面が皆無だとは言いませんが、それを目的とはしていません。前述の反カルト運動の説明と同様に、被害や問題性に立脚しそれを世に訴える手段です。

 先日の「やや日刊カルト新聞について」で、以下のように説明しました。

何も問題になっていない場面に乗り込んでいっておちょくるということはありません。カルトがおかしなことをしている公共の場所や一般公開の場所に行って、こちらは悪いことをせずに彼らのおかしさを面白おかしく示しているだけです。

 これは単に我々の脳内の「意図」としてそうだというだけではありません。実際に「いじる」場面、内容において、実際の行動としてその意図を実践しているという意味です。

■「カルト認定」は不変ではない

 やや日刊カルト新聞では特定の団体へのカルト認定はしていないと書きましたが、その例外が幸福の科学です。2011年の記事「【社説】教祖夫人を永久追放した幸福の科学の“カルト性”」以降、やや日刊カルト新聞の記事でもぼくは幸福の科学を明確にカルトと呼んでいます。

 幸福の科学は1991年に『フライデー』の記事に抗議して、発行元の講談社に抗議の電話やFAXを殺到させ業務を麻痺させるテロまがいの行為を行い、また1997年お布施変換を求める元信者と代理人弁護士相手に名誉毀損を理由に8億円もの損害賠償を求める威嚇訴訟を起こしました。この時点では間違いなくカルトでした。

 しかしその後は、表向きはおとなしくしていました。2009年に幸福実現党を結成して注目された際にぼくは取材を始めたのですが、この時点では「いまもカルトだ」という確証はありませんでした(取材する中で、印象としてはそう感じてはいましたが)。

 過去に「カルト」だった団体が、その後、永遠にカルトだとは限りません。いまカルト呼ばわりするには、それになりに近い時期の情報を根拠にする必要があります。この点もぼくが基本的に「カルト認定」を避けるようにしている理由です。

 しかし幸福の科学は2010年から教祖の当時の妻に対して、霊言を用いて誹謗中傷するということを繰り返しました。組織をあげての人権侵害ですから、カルトと呼ぶしかないでしょう。過去に間違いなくカルトだったものを、それまでは明確に「カルト」と呼ばずに扱ってきた以上、それではいけないのだということを明確に表明する必要がありました。そこで、幸福の科学に限っては「カルト認定宣言」を行なうに至りました。

 それから7年近く経ちますが、その後も幸福の科学学園が違法な教育を行ない生徒の人権にかかわる問題を抱えていることが明らかになり、それをぼくが週刊新潮で記事にして以降はぼくに対して暴力や脅迫も含む取材妨害が行なわれるようになりました。信者に対しても、教団の教えに逆らえば地獄行きとする経文をいまだに唱えさせていることもわかりました。批判的な記事を書いた大学教授の勤務先の大学に無断で乗り込んで騒いだりもしています。昨年からは、教団施設前の公道で取材者の往来や写真撮影を実力行使で妨害するなど、その行動はエスカレートしています。

 幸福の科学側が、間違いなくカルトであることを示す時事的なトピックスをどんどん提供してくれるので、いまも堂々と「幸福の科学はカルト!」と言うことができます。

 しかし一般論としては、問題視された深刻な事例が過去のもので、現状がよくわからないものについては、公然とカルト呼ばわりできるかどうかとなると難しくなってきます。いちどカルトとみなされた団体なら、実態を見ずに永久にカルト呼ばわりするなどという姿勢は、公正とは言えません。

 しかし、たとえば法の華三法業は詐欺罪に問われた教祖が刑期を終えて出所したものの、詐欺について全く反省しない旨の発言をした上で復活。現在も「第3救済 慈喜徳会」の名で宗教活動を続けています。過去にカルトだったものの現在の詳細がわからないものについて、全く取り上げないという姿勢を決め込むと、こうしたケースに対応できません。

 カルトを定義したりカルトかどうかを認定することに原則こだわらないというやや日刊カルト新聞の方針には、こうした理由もあります。カルトであるかどうかより、カルト問題に関わるトピックスであるかどうかで、記事にするかしないかを判断しています。

■政治的蔑称としての「カルト」

 カルトの定義の話を改めて書かねばと思った最大の理由は、最近「安倍政権はカルト」「日本会議はカルト」「国家神道(あるいは神社本庁)はカルト」と言った言説がネット上で飛び交うのを目にするからです。やや日刊カルト新聞やぼくがそういう文脈で安倍政権や日本会議や神社本庁を批判しないことを批判する人もいます。

 実際には、『日本会議の研究』という本が出版されて世の中に日本会議批判ブームが起こる前に、著者の菅野完氏をやや日刊カルト新聞のトークイベントに招いて日本会議について語ってもらったりしています。菅野氏は、日本会議の中核となっている日本青年協議会については、直接的人権侵害も見られ「カルト」だとする一方で、そこまでの極端さは持たない「草の根運動」の寄り合い所帯である日本会議については「カルトではない」と見ているようです。

 このように「カルト」や「カルト問題」に照らし合わせて語るなら、わかります。しかし端的な言葉を発する人々の多くは、そもそもの「カルト問題」をめぐる議論を何も踏まえていなかったりします。最近もTwitterで「国家神道はカルトだ」と言う人がいたので根拠を尋ねたら「現人神思想」だという返事が返ってきました。思想ではなく行為を問題とする「カルト問題」の議論など、踏まえていないどころか知ってすらいない様子でした。

 90年代に「カルト」「マインド・コントロール」という言葉がメディアなどでよく取り上げられるようになった際、カルト問題に取り組む人々が使うそれらの言葉の意味や問題意識と、社会一般のそれとの乖離が顕著になった印象があります。社会一般では、自分が批判したい対象を「カルト」「マインド・コントロール」と呼んで非難するという、レッテル貼り的な批判の道具のように使われてしまう場面も見られます。あるいは反カルト運動をそういうことをする運動だと主張し批判する人もいます(もちろんこうした批判の中には、カルト側からのプロパガンダも含まれています)。

 安倍政権への反感が高まる中、またそれに対抗する保守派の声も大きくなっているいま、Twitterなどの直情的なメディアで同じようなことが、しかも政治色を帯びて起こっているようで不安になります。実際のカルト問題が置き去りにされたまま「カルト」という言葉が政治利用され、明後日な方向の蔑称として通俗化しかねません。一部の人々の間ではすでにそうなっていると言ってもよさそうな状況です。

 こうした風潮の中では、カルトの定義や「カルト」という言葉をめぐる問題意識は無視されています。「カルト」という言葉を批判対象である政治勢力への対抗運動に政治利用する発想自体が、反カルト運動が目指してきた運動や問題意識とは大きくかけ離れています。

 ぼく自身も安倍政権や日本会議まわりには問題があると思っています。ただ、政治のために「カルト問題」を踏み台にするのはやめてほしいと思います。

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