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ルバイヤットの一齣が原文のままで我邦に渡来したと云ふことは何とも愉快なことではありませんか


新村出『典籍叢談』(岡書院、大正14年9月25日)

堀井梁歩訳『ルバイヤット 異本留盃邪土』(南北書園、昭和22)のなかに新村出『典籍叢談』(岡書院、大正14年9月25日)にペルシャ語で書かれたルバイヤットの写真版が出ていたとある。『典籍叢談』はわりと見る本のような気がしたので、できれば古本屋で出会いたいなと思っていたところ、早くも本日遭遇。しかも均一コーナーで(!)。

そこにはたしかに図版もあり、次のように書かれている。厨川白村の追悼文「厨川博士の追憶より鎌倉懐古へ」。白村とオーマル・カイヤムについて語り合ったという思い出より。

私は羽田博士が今より数十年前に考証された南番[ママ]の古詩篇の出典の尚不明であることを語り、もしやオーマル・カイヤムの四行詩篇[ルバイヤツト]の中にでも見出されたらば興味が一段と深からうと附加へた。その南番詩篇といふのは、鎌倉初期の建保五年、ーーそれは西暦の一二一七年に当る、ーー閑居友をかいたあの慶政上人が栂尾の明恵上人のために、南支那の泉州で亞剌比亞人あたりから番字で波斯の詩句を書いてもらひ、それを送つた文書のうへに見えるのである。白村君はそれから私のために一とほり調べてくれられたと見えて、その後どうもオーマル・カイヤムには出てゐないと報ぜられた。こんなことも今は一夢となつたのだ。

『典籍叢談』p120-121


慶政上人の添書せる南蕃文字、四行詩二首

この記事を受けて堀井梁歩が執筆した「日本に於ける『ルバイヤット』の書誌」(『異本留盃邪土』所収)には次のように出ている。ペルシャ語の権威城大の松本教授に解読を依頼した。しかし古文書のゆえにはっきりしない。

 オマール・カイヤムのものと言はれてゐるものの中にも他人の作が随分混入されて居るさうで、ロシヤの有名な波斯学者シユウコフスキーなどの研究に依ると、随分沢山のものが混入してゐるさうです。
 オマール・カイヤムのものであつても無くてもいいが、兎に角そのころに相当に人口に膾炙してゐるルバイヤットの一齣が原文のままで我邦に渡来したと云ふことは何とも愉快なことではありませんか。p117

『異本留盃邪土』p117

堀井はさらにイギリスのルバイヤット書誌の専門家A・G・ポツターに意見をきいたと思われる。それについての回答らしき書簡も掲載されており、どういう依頼をしたのかがよく分からないものの、詩篇についてはこう書かれている。

 それから御送付の雑誌を英国博物館の権威者に托した所、挿入の写真の四行詩は、確かにオマールのものであると断定されました。然し、フイツゼラルドの翻訳と同一のものではないと云はれました。

『異本留盃邪土』p122

《御送付の雑誌》というところが気になるが、ルバイヤットの作者同定は容易ではないようである。また、これは中国の泉州(福建省)がいかに国際都市であったかの証拠にもなろう。

1279年に崖山の戦いで南宋(1127年-1279年)が滅亡すると、元朝(1271年-1368年)に協力したアラブ人の蒲寿庚が重用され港湾都市として発展した。「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点として漢人のほかにもアラブ人やペルシャ人などが居住する国際都市として発展し、『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する事からも中世イスラム世界にも知られた都市であったことが推察され、またマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ザイトン[「刺桐」の閩南音、もしくはアラビア語で「オリーブ」を意味する「ザイトゥーン」(زيتون)に由来する。]」の名称で紹介されている。14世紀にはイブン・バットゥータも訪れ、『三大陸周遊記』に約100艘の大型ジャンクと数え切れないほどの小型船が停泊する「世界最大の港」と記している。ウィキペディア「泉州市」

ウィキペディア「泉州市」

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