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私は、急に堀君を相手に口論しはじめていた


『アンドレ・ブルトンと瀧口修造』(佐谷画廊、1993年)

銀座4丁目の有楽町寄りにあった佐谷画廊の展覧会カタログです。佐谷画廊へは、それほど頻繁ではありませんが、上京する機会があるときにはできるだけ訪ねるようにしていました。山田正亮、戸谷茂雄、ブーレらの印象深い展覧会に出会えたことを思い出します。

瀧口修造展も見ました。ただ、この「アンドレ・ブルトンと瀧口修造」展だったかどうだかハッキリしません。以前持っていたこの図録を一度手放して、最近、古本屋さんで買い直したものです。ひょっとしたら前の本は画廊で直接買ったものだったかもしれません。とすれば、30年も昔の話だということですね。

これは第13回オマージュ瀧口修造展「アンドレ・ブルトンと瀧口修造」のカタログです。目玉は瀧口がブルトンのアパルトマン(パリのフォンテーヌ街42番地)を訪問したときの写真群です。

瀧口に会ったブルトンは機嫌が良く、ブルトンの提案で皆(ブルトン、瀧口と東野芳明)で写真を撮ろうということになり、瀧口らは訪問の翌日、1958年10月9日、ルネ・ロラン(François René Rolan, 母が日本人のフランス人写真家)とともに出直して撮影したものだそうです。

それらは美術雑誌『みづゑ』(1959年3月号)に発表されました。オマージュ展のために佐谷氏はフランスの田舎に引っ込んでいたルネ・ロラン氏を探し出し、当時のネガを借りることができたと、あとがきに書かれています。

それらの写真も細部まで見飽きない稀有なものですが、ここの収録されている瀧口修造の「追悼 アンドレ・ブルトンの窓」が、また、いい文章です。

1966年9月29日(ブルトン死去の翌日)、ブルトンの死を知った瀧口はエリザ夫人に「偉大ナ人間・詩人ノ死ニ深イ悲シミヲ・ヒトツノ星ガワレワレニトッテ永遠ニ封印サレマシタ」と電報を打ちました。そうして、しばらく後になって(文中には《最近の夢》とあります、初出は『みづゑ』1966年12月号)、こんな夢を見たと書いています。

 私は雪の日をえらんでアントワープのリューベンスの家を訪ねたらしい(ヴェネチア以来、食傷するほど見飽きたリューベンスの遺跡を訪ねる気になったのはふしぎだ)。私は実際にその家のケースのなかに始めてゴール人の古い貨幣の幾片かを見つけたのだった。リューベンスは古銭の蒐集家でもあったのだ。ところで妙なことにその広いアトリエで若い日の堀辰雄と落ち合うことになっていたらしいのである。清潔なタイル張りの床と格子窓のたたずまいに、フェルメールとモンドリアンとを同時に想いだしていた私は、急に堀君を相手に口論しはじめていた。いつの間にか彼が手に掴んでいて離そうともしないゴールの古銭を、私はブルトンに返すべきだと、むきになって主張している。そのブルトンはいまやどこにもいないのだと意識しながらも、私の論旨が精密をきわめていたので、うつくしく頬を紅潮させていた堀辰雄は、例の癖で吃りながら、みるみる灰白色になり、ついに石膏像のように動かなくなってしまう……

p12

瀧口修造はちょうど一歳、堀辰雄より年かさです。《ゴールの古銭》というのはブルトンがゴール人がローマの貨幣を模倣することを頑なに拒んでその模様を抽象化したと書いている、そのことを瀧口は夢のなかで思い出したのだそうです。

つながっているようで、脈絡のない、しかし、いかにもシュルレアリストらしい夢ではないかと思います。

かわいそうなアンドレ! 地べたにしゃがみこんで、なんて悲しそうなの!
https://note.com/daily_sumus/n/n2c2789d0e5dd


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