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【特集】1枚の古写真からわかること

【2022年5月1日/大阪歴史倶楽部】

はじめに

大阪歴史倶楽部です。出所不明で詳細が分からない(何の説明書きもない)大阪の心斎橋しんさいばしを撮影したと思われる1枚の古写真こしゃしんから様々な情報を読み取り、撮影年代をはじめその時代背景なども紐解ひもといてみたいと思います。なおこの記事中に掲載いたしました写真の出典はすべて文末にまとめて掲載しています。

今回も長文になってしまいました(本文約7,000字)。すみません。けれども最後までお読みいただきますと、博物館学芸員という人は古い1枚の写真を見てどんな事を考え、何を思うのかが、少しお分かりいただけるかなと思います。お時間がおありのときにでも、ゆっくりとお読みいただければ嬉しく、ありがたく存じます。


心斎橋(橋梁)略史

最初に心斎橋しんさいばし橋梁きょうりょうとしての心斎橋)の歴史をごくごく簡単に振り返りたいと思います。

心斎橋という橋の起源については、よく分かっていません。一説には1622(元和8)年の長堀川ながほりがわの開削とほぼ同じ時期に架けられたとされていますが、よく分かりません。

その後1873(明治6)年に本木昌造もときしょうぞうの設計と伝えられるドイツ製の鉄橋に架け替えられました(写真01, 02)。

01 1873(明治6)年架橋の鉄橋時代の心斎橋
02 1873(明治6)年架橋の鉄橋時代の心斎橋

さらに1909(明治42)年に野口孫市のぐちまごいちの設計による石造橋に架け替えられました(写真03)。

03 野口孫市の設計による石造橋の心斎橋

その後1962(昭和37)年に長堀川が埋め立てられると、野口孫市の心斎橋は撤去され1964(昭和39)年に道路をまたぐ陸橋(歩道橋)として移設・転用されました(写真04)。

04 陸橋(歩道橋)に転用された心斎橋
(心斎橋筋北商店街振興組合様 蔵)

さらにその後、大阪市営地下鉄「長堀鶴見緑地ながほりつるみりょくち線」(現・大阪メトロ「長堀鶴見緑地ながほりつるみりょくち線」)の工事に伴って陸橋(歩道橋)となっていた心斎橋も撤去されました。

しかし1997(平成9)年に長堀川の跡地に地下街の「クリスタ長堀」が完成すると、その地上部分にかつての石造橋の心斎橋が移設され、明治42年の野口孫市の心斎橋が復元されたかたちで現在に至ります(写真05)。

05 現在の心斎橋(2022年4月 大阪歴史倶楽部 撮影)


問題の写真

下の写真は、数年前に大阪歴史倶楽部がフリーマーケットで入手した出所不明の写真です。大きさは、ヨコ14.2cm✕タテ9.0cmで大正時代の葉書のサイズと一致します(写真06)。以下この記事ではこの写真のことを「大歴だいれきの写真」と記述します。

06 出所不明の心斎橋の写真(大阪歴史倶楽部 蔵)

この写真を入手した時に分かっていたことは、戦前の大阪の心斎橋しんさいばしを撮影した写真だということのみです。大阪歴史倶楽部は、この写真をひと目見て、

「大正時代の後半から昭和のはじめ頃の写真で心斎橋の南詰みなみづめ付近から北を向いて撮影した写真に間違いない」

と直感いたしました。まず、心斎橋であることは橋上燈きょうじょうとう(橋の上にある街燈)や橋そのものの形状から疑う余地はありません。そして心斎橋の向こう側に路面電車(大阪市電)が写っていますが、当時の大阪市電の路線図や1924(大正13)年に発行された『大阪市パノラマ地図』を見ますと心斎橋の北側に大阪市電が走っていたことが分かります(図1〜3)。

図1 『大阪市パノラマ地図』の心斎橋付近
(画面の左上が北の方向になります)
図2 1924(大正13)年の大阪市内電車路線図
図3 1926(大正15)年の大阪市内電車路線図

従いまして、この写真は心斎橋の南詰付近から北を向いて撮影したことは確実です。

この「大歴の写真」に写っている心斎橋は、上述の明治42年に架けられた野口孫市の設計による石造橋の心斎橋です。

さて、このセピア色に変色した写真をコンピューターに取り込んで大阪歴史倶楽部が汚れや小さな破れ、傷などのノイズを除去し、カラーを微調整したものが下の写真です(写真07)

07 ノイズを除去しカラーを微調整しました

さらにこの(写真07)を見やすいようにグレースケールに変換してみました(写真08)。

08 見やすいようにグレースケールに変換しました

さらに写真から読み取れる大まかな情報を赤色で書き込んでみたのが下の写真です(写真09)。

09 写っている様々な情報を書き込みました
※心斎橋郵便局については文末の補足をご参照ください


写真についての考察

(1)撮影された年代
じつはこの「大歴の写真」と全く同じ写真が『「大大阪」絵はがき集』(創元社 2010年)に収録されています。おそらくこの写真の原版げんぱんをもとに各種の印刷物が制作されたのだろうと推測できます。その1つがこの「大歴の写真」であり、また別の1つが『「大大阪」絵はがき集』収録の絵はがきの写真になったものと考えられます。

そこで大阪歴史倶楽部が『「大大阪」絵はがき集』の出版元に『「大大阪」絵はがき集』収録の写真(絵はがき)の撮影年を問い合わせたのですが、いただいた回答は「大正時代から昭和初期頃としか分からない」とのことでした。

大阪歴史倶楽部がさらに独自に調べを進めますと『大阪市立図書館デジタルアーカイブ』(以下この記事では「市立図書館」と記述します)にこの「大歴の写真」とよく似た写真が収録されていることが分かりました(写真10)。

10 大阪市立図書館デジタルアーカイブの写真

余談ですが、ほぼ同じ時期(1918年頃)に心斎橋を反対側から(すなわち橋の北側から南を向いて)撮影した写真が下の写真です。橋の南詰に写っている大きなビルは石原時計店で、1915(大正4)年に完成していたものです(写真11)。

11 心斎橋を反対側から撮影した写真

さて、話を本題に戻しまして、市立図書館の写真(写真10)は、1920(大正9年)に発行されたことが判明しています。この市立図書館の写真(写真10)と「大歴の写真」(写真06または写真09)とをくらべますと、市立図書館の写真は画面右側(すなわち心斎橋の北東)にある不動貯蓄銀行ふどうちょちくぎんこうの建物が増築される前の写真であることが分かります。いっぽう「大歴の写真」には増築後の姿が写っています。このことから「大歴の写真」は市立図書館の写真(大正9年発行)よりも新しいことが判明いたします。

さらに「大歴の写真」をよく観察しますと、同じく画面右側に写っている大阪市電の手前に人力車が数台まっているのが見えます。人力車の車列の左側の車は客を乗せているように見えますが右側数台は空車のようです。そこで人力車が交通手段として利用されていた年代を調べてみますと、大阪市内での人力車の始まりは1870(明治3)年なのですが終焉しゅうえんは、全国的にだいたい大正時代が終わる頃までには都市部においては消滅した(バスやタクシーに替わった)ようです。

ちなみに大阪市内のおもな公共交通機関の開業年を年代順に並べてみますと、

人力車:1870(明治3)年
馬車鉄道:1871(明治4)年
大阪市電:1903(明治36)年
タクシー:1917(大正6)年
民営バス:1924(大正13)年
大阪市営バス:1927(昭和2)年
大阪市営地下鉄:1933(昭和8)年

となります。このうち民営バス(大阪乗合自動車おおさかのりあいじどうしゃ)は、その車体の色から通称「あおバス」と呼ばれ、大阪市営バスは同じく車体の色から通称「ぎんバス」と呼ばれて、戦前には両者が熾烈しれつな競争を繰り広げていました。

12 大阪の天神橋?を渡る人力車
13 大阪市電の初期の車両
14 民営バス(大阪乗合自動車=青バス)
15 大阪市営バス(銀バス)

なお人力車については、全国的に見て遅くまで残っていた地域でも昭和の1ケタ代には姿を消したようです。

これらのことから、大歴の写真は大阪市の中心部である心斎橋で撮影されということも考慮すると、撮影された年代は1920(大正9)年頃よりも後で人力車が消滅する大正時代の終わり頃、すなわち1926(大正15)年頃よりは前だろうと推定できます。ですから最も古く想定しても、だいたい大正10年前後から大正15年頃までの4~5年の間に撮影された写真ではないだろうかと思います(最も新しい想定をしても昭和の1ケタ代よりも時代がくだることはないだろうと思います)。

(2)撮影された季節
さらに「大歴の写真」を観察してみます。人々の服装に注目します。まず男性は帽子ぼうしを被っている人が多いのですが、この当時(大正時代から昭和初期)は帽子が大流行していまして、季節を問わず男性は「外出する際には帽子を被るのがマナー」という世の中の雰囲気でした。ですから帽子は無視して差しつかえないと思います。

注目すべきは人々の着ている着物や洋服の色が濃いというところです。スーツ姿の紳士は上着を着ています。当時は暑い時期には洋服の人は上着を脱いで白っぽいシャツで行動し、寒い時期には暗い色の分厚い外套がいとう(コート)を着るのが普通でした。この写真を見ますと、写っている人々の着ているものは全体に白っぽくもなく薄着でもなく、かといって分厚い黒っぽい冬服でもないようです。また学生さんは長袖ですが外套は着ていません。これらのことから、この写真が撮影された季節は春か秋だろうと考えられます。

(3)撮影された時間帯
さらに「大歴の写真」を観察します。数人の男子学生と1人の女学生らしき人が写っています。女学生は袴を着けていますね。『はいからさんが通る』のはいからさんのような姿です(後ろ姿ですが)。このことから撮影された時間帯は平日で、登校か下校の時間帯だと思われます。

さて、登校時でしょうか下校時でしょうか。もう少し写真をよく観察してみますと、心斎橋の橋の欄干らんかんにもたれて川をながめている2人が写っています。さらに自転車をめて川を見ている人もいます。このことから、朝のあわただしい時間帯ではなくて夕方だろうと思われます。あわただしい朝の出勤や登校の時間帯に、優雅に橋の欄干にもたれて川を眺めたり、自転車を停めて川を眺めたりするでしょうか。

また夕方である証左しょうさとして人や物の影が右側(すなわち東側)に伸びているということから、西陽にしびだということがわかります。さらによく見ると画面の左端にも大阪市電が写っています(見切れていますが)。画面の右側と左側との合計2両の市電は、それぞれ屋根の上に付いている(架線から電気を取り込む)装置(トロリーポール)の向きから判断して、どちらの電車も画面の右から左(すなわち東から西)へ向かって走っていることが分かります。市電がこれだけ間を詰めて同じ方向に走っているということからも、夕方の帰宅の時間帯だと思います。さらに画面のいちばん手前には水を撒いた跡があります。だいたい水を撒く時間帯は朝か夕方ですので、以上のことを総合して考えると、やはりこの「大歴の写真」が撮影された時間帯は夕方ではないだろうかと思います。

そして他の同時代の同時間帯に撮影された写真と比較すると、この「大歴の写真」は西陽であるにもかかわらず影が薄いことから、撮影した日の天気は薄曇り。そして歩いている人たちの着ている洋服や着物のシルエットが乱れていないことからほぼ無風に近い状態だったと推定できます。


まとめ

これらのことから、今回ご紹介いたしました「出所不明」「情報皆無」だった「大歴の写真」は、写真に写り込んでいるさまざまな人や物の情報から、

(1)心斎橋の南詰付近から北を向いて撮影した写真
(2)1921(大正10)年前後~1926(大正15)年頃までの4~5年の間に撮影された写真の可能性がある(すなわち写真に写っているのは大正時代の心斎橋の街並み)
(3)撮影された季節は春か秋
(4)撮影された時間帯は夕方の帰宅時間
(5)撮影された日の天気は薄曇りでほぼ無風に近い

ということが推定できます。次にこの「大歴の写真」を大阪歴史倶楽部が独自に自動で(コンピュータを用いて)カラー化した写真をご覧ください(写真16)。

16  自動でカラー化処理しました

この自動でカラー化した写真の左端を見ますと、草木がまだ青いことなどから、やはり春か秋ではないでしょうか。

さて、大正時代の後半から昭和のはじめ頃の心斎橋といいますと、モダンガール・モダンボーイ(モガ・モボ)たちが「しんブラ」をして街を闊歩かっぽしていた時代のはずなのですが、この「大歴の写真」ではモガ・モボらしき人は見当たりません。かろうじて帽子にスーツにジャケットにステッキという出で立ちの「洋服の紳士」がモボらしき人かなと思います。

しかしよく考えてみますと、平日の夕方の帰宅の時間帯(みんな仕事で疲れてお腹を空かせていて、家に帰って夕食を食べようと思っている時間帯)ですから、モガ・モボたちも職場などから自宅へまっすぐ帰っているのかもしれません。この写真が仮に休日の午前中の遅い時間帯や午後であれば、モガ・モボたちも写りこんだのかもしれません。けれどもモガ・モボたちが一世を風靡するのは、この写真が撮影された時代(大正時代後半)よりも、もう少し後の時代である昭和1ケタ代になってからだと思いますので、この写真はモガ・モボたちが街を闊歩していた時代よりはわずかに(ほんの数年)前の写真かもしれないとも思います。

また、上述のように大阪市電が2両写りこんでいますが、当時(大正時代から昭和初期)の大阪市内を撮影した写真を見ますと、多くの写真に「橋と市電」という組み合わせが見られます。このことから「橋と市電」の写真は当時の定番であり、この「大歴の写真」を撮影した写真師しゃしんし(いまでいうカメラマン)も、橋と市電との組み合わせを意識して撮影したのかもしれません。写真師は橋の南端に立ち、電車が橋の向こう側にやってくるのを待っていたのかもしれません。

そう思って再び写真を見ますと、電車が橋の向こう側を塞いでいない(橋の向こう側まで見通せる)。しかも夕方の帰宅時間の風景にふさわしく、ちょうど同じ方向に向かって間を詰めて走っている2両の電車が1つの画面におさまっている。画面右側の電車の手前には客を乗せた人力車と客待ちの人力車が居る。橋の上には仕事帰りのスーツの紳士、学校帰りの女学生や男子学生、また散歩をしている親子や姉妹とおぼしき人たち。橋の欄干らんかんにもたれて川の流れを見つめている2人。自転車を停めて川の流れをボンヤリと眺めている男性も。まさに「夕方の1コマ」を物語るベストショットではないかなと思います。

これは、やはりプロの写真師しゃしんしがこのタイミングを待って、狙って撮った1枚の「作品」ではないだろうかと思います。


心斎橋への行き方

地下鉄を利用するコース
心斎橋へは、大阪メトロ御堂筋線みどうすじせんおよび大阪メトロ長堀鶴見緑地線ながほりつるみりょくちせんの「心斎橋しんさいばし」駅2号出口から東へ徒歩約1分(100m足らず)です。

南海電鉄を利用するコース
また、南海電鉄なんかいでんてつ「なんば」駅から心斎橋までは、まっすぐ北へ徒歩約20分(約1km)です。

「心ブラ」のスゝメ
時間に余裕のあるかたには、南海電鉄の「なんば」駅からのコースをお勧めいたします。このコースは大阪の有名観光スポットである「戎橋えびすばし商店街」を抜けて道頓堀どうとんぼりかる戎橋えびすばし(グリコの電飾看板のある橋)を渡り、心斎橋筋商店街しんさいばしすじしょうてんがいの中を歩いて心斎橋に至り、心斎橋を渡って再び商店街(心斎橋筋北しんさいばしすじきた商店街)の中を歩いて本町ほんまちまで行く約2km(徒歩約40分)のコースです。このコースは大正時代から昭和初期にかけて(すなわち大大阪時代だいおおさかじだいに)モダンガール・モダンボーイ(モガ・モボ)たちが歩いていた「しんブラ」のコースなのです。

【豆知識】
大正時代の終わり頃から昭和の初め頃にかけて、東京ではモダンガール・モダンボーイ(モガ・モボ)たちが銀座の街をブラブラと歩いてウインドウショッピングをすることが流行の最先端でした。これを「ぎんブラ」と言いました。これに対してモダン都市大大阪だいおおさかでは、心斎橋しんさいばしの街をブラブラしたので「しんブラ」と言いました。

17 大正時代はじめ頃の心斎橋筋


今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。


【謝辞および追記】
2022年5月19日に、心斎橋筋北商店街振興組合様より、写真09について以下のご教示を賜りました。

(1)心斎橋北詰の仁丹の看板とキリンビールの看板との間にある2階建の洋風の建物は「心斎橋郵便局」である。

(2)仁丹の看板の後方にある三角屋根の建物は「和田栄 ネル店」である。

(3)仁丹の看板の西側(写真左側)には商店街の入口があり、手前にいる大阪市電の向こう側にはその入口の上にある白っぽい天幕のような屋根が少し見えている。

また、町名としての「心斎橋」は存在せず、かつては心斎橋の橋の中心を境に東側(写真右側)が「長堀心斎町」で西側(写真左側)が「長堀10丁目」であった。

以上のご教示を賜り、感謝を申し上げます。心斎橋筋北商店街振興組合様、ありがとうございます。

なお、このご教示に従い、写真09は新しく差し替えいたしました。


【補足】
心斎橋北詰の2階建の洋風の建物につきましては、大阪歴史倶楽部が『大大阪営業大観』(1924年/国立国会図書館 蔵)等を参照し、合わせて大阪市立中央図書館内の「大阪資料室」にも調査の依頼をいたしました結果「独立軒」という名前の写真館ではないかという結論に至りましたが、このたび心斎橋筋北商店街振興組合様より「心斎橋郵便局」とのご教示を賜りましたので再度精査をしたいと思います。

【参考にしたおもな文献】
◎『大阪府写真帖』1914年
◎西田繁造編『日本名勝旧蹟産業写真集』「近畿地方之部」富田屋書店 1918年
◎日高胖編『野口博士建築図集』1920年
◎『大阪市パノラマ地図』1924年
◎『大阪交通便覧』1924年
◎『大大阪独案内』1926年
◎新聞聯合社編『消費の合理化』1929 年
◎河盛久夫『尖端を行く』中央美術社 1930年
◎朝日新聞社編『明治大正史』 (第4巻 世相篇)1931年
◎『寫眞心斎橋』心斎橋新聞社 1935年
◎大阪市電気局編『大阪市電気局四十年史(運輸篇)』1943年
◎橋爪紳也『「大大阪」絵はがき集』創元社 2010年
◎谷内正往「大阪の交通史-戦前の市電と乗合自動車」大阪商業大学 2018年


【図・写真の出典】
〔図〕
(図01)『大阪市パノラマ地図』1924年 より(パブリックドメイン)
(図02)『大阪交通便覧』1924年 より(パブリックドメイン)
(図03)『大大阪独案内』1926年 より(パブリックドメイン)

〔写真〕
(01)大阪市立図書館デジタルアーカイブより/管理番号:d2148001/書誌ID:0080349621/画像管理番号:202434/パブリックドメイン
(02)大阪市立図書館デジタルアーカイブより/管理番号:d2148001/書誌ID:0080349621/画像管理番号405/パブリックドメイン
(03)日高胖編『野口博士建築図集』1920年(パブリックドメイン)
(04)心斎橋筋北商店街「心斎橋今昔」心斎橋筋北商店街振興組合蔵(心斎橋筋北商店街振興組合様から特別に掲載許可をいただいています)
(05)現在の心斎橋(2022年4月 大阪歴史倶楽部 撮影)
(06)大阪歴史倶楽部(九條正博) 蔵(フリーマーケットにて入手したオリジナルの写真)
(07)(写真06)を大阪歴史倶楽部がノイズを除去してカラーを調整したもの
(08)(写真07)を大阪歴史倶楽部がグレースケールに変換したもの
(09)(写真08)に大阪歴史倶楽部が各種情報を赤色で書き込んだもの
(10)大阪市立図書館デジタルアーカイブより/管理番号:d2570001/書誌ID:0080349629/画像管理番号:407/パブリックドメイン
(11)西田繁造編『日本名勝旧蹟産業写真集』「近畿地方之部」富田屋書店 1918年(パブリックドメイン)
(12)絵葉書/大阪歴史倶楽部(九條正博)蔵(撮影年代不明。明治の終わり頃か?)
(13)大阪市立図書館デジタルアーカイブより/管理番号:d2364001/書誌ID:0080349623/画像管理番号:2942/パブリックドメイン
(14)大阪市電気局編『大阪市電気局四十年史(運輸篇)』1943年(パブリックドメイン)
(15)大阪市電気局編『大阪市電気局四十年史(運輸篇)』1943年(パブリックドメイン)
(16)(写真08)を大阪歴史倶楽部が自動でカラー化処理したもの
(17)『大阪府写真帖』1914年(パブリックドメイン)


(『月刊 大阪歴史倶楽部』第1巻 第2号 通巻2号 2022年5月1日)

※次号は2022年6月1日に投稿する予定です。
《次号予告》
【文化財紹介】(内容未定)
いつものように近代建築をご紹介させていただきたいと考えています。

©2022 大阪歴史倶楽部(OsakaHistoricalClub)
無断引用・無断転載を禁じます。

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