オヤジギャグのアート化:Mo-So Timesコラム
ここのところ毎日、空想からのショートショートを書いています。これは、ショートショート作家の田丸雅智さんに影響を受けたことがキッカケです。
空想からアイデアが湧き出してくる。
空想から現実が変わるようなイノベーションも生まれる。
空想をすることで、現実世界の見え方も変わります。
ボクは脳のクリエイティブモードを活性化させるために続けています。
これをやっていて感じるのは、日本語の面白さです。
多様な漢字などを含め、難解な言語と言われます。しかし、我々はそのおかげで発想の飛躍などしやすい思考パターンを持っているのではないか?と感じる今日この頃です。
※この件はもう少し深掘りしていきます。
空想のショートショートを考えるとき、漢字の誤変換や言葉の面白い響きから発想が広がったりするのです。
それで、ふと思い出したこと。
以前、FBには合わない2000文字くらいの投稿を続けていた時があり、その中に"ダジャレやオヤジギャグの価値を高めるにはどうしたら良いか?"考えた提案がありました。
探したら出て来たので(やっぱりFBには合わない?検索できない。)こちらに再掲してみます。
2016年4月のものです。
【オヤジギャグをアート化したい】
オヤジ化することの価値を高めたい。
まずはオヤジギャグについて
ウィキペディア、かなり的をついてます。
センス良く説明しているので読んでみてください。
〜ウィキペディアより一部抜粋〜
〜以上抜粋終わり〜
ここまで分かっているならば、対策のしようもあるはずです。
ボクは、オヤジギャグとは人間の言語能力の向上がもたらす、文化的創造の一つであり、日本の無形文化にも共通項がある様に感じています。
日本の芸術にみられる、「見立て」(なぞらえる)は、似たものを通じてあるものを表現するという、連想力や想像力の為せる高度な創造表現ですが、オヤジギャグも言うなれば“コトバの見立て”です。
“韻を踏む”というものにも同じような価値が潜んでいる気がしてなりません。それは、コトバのリズムに心地よさを求める、かなり感覚価値の高いものです。
そう思うと、なぜオヤジギャグには価値が見出せないどころか、嫌がられるのか?不思議でなりません。
理由の一つは、「どうでも良いこと」を「安直に表現」という、常識的な組み合わせであること。これは、くだらないものはどうでも良い。という思考バイアスの一つです。
まずは、このバイアスを壊す。そのために
「とんでもなく大事なこと」を「安直に表現」を心がけるべきでしょう。
これこそ、百戦錬磨の“オヤジの経験値”と積み上げた“言語アレンジ能力”で紡ぎ出せる、本物のオヤジギャグへの昇華になるのではないかと考えます。「思わず笑っちゃったけど、何やら凄いこと言ってたような。。」これが後進達が望んでいることです。
これは、もう一つ嫌われる“オヤジの説法”にも応用できます。オヤジの説法も、とても大切なことを伝えたいにもかかわらず、嫌がられてしまうのは「大事なことを」「難しそうに」伝えるからです。
そう。オヤジの説法こそオヤジギャグとして表現するのはどうでしょう。
※今日は「どうでもよいこと」を「難しめに」書いてみました(笑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?