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立ち上がる力

今週は日系アメリカ人3世にあたるジュリー・アズマさんに大学院でご講演をして頂いた。ジュリーさんはニューヨークの日系アメリカ人コミュニティーの中心であり、またお仕事の方でも社会起業家としてご活躍されている。今回は日系アメリカ人の歴史についてお話頂いた。

ジュリーさんはシカゴで生まれ育ったのだが、ご両親はいわゆる強制収容所に入っていたにも関わらず、全くその話はせず、かつ収容所にいたことを否定していたそうだ。日系アメリカ人コミュニティの中では強制収容所は恐ろしいまでの負の歴史で、誰も話そうとしなかった。当時は強制収容所を出た人は(日系アメリカ人が多く住んでいて、かつ収容所の多くが位置していた)西海岸に戻ろうとする人は少なく、また戻っても人種差別が激しく不幸な思いをされた方が多かったようだ。また、ジュリーさんのお父様もシカゴには住んでいたものの、車を運転しているとすぐに(人種が理由で)警察に止められて捕まるのではとのトラウマから、車の運転もしたがらなかったそうだ。

現在のニューヨークは多様な人種がいて特に大学院は各国からの留学生が多く気にならないのだが、ジュリーさんの住んでいた地域はシカゴのサウスサイドと呼ばれるエリアでアフリカ系アメリカ人が多数を占める地区だったようだ。また大学はペンシルバニア州の大学に通っていたそうなのだが、当時の学校ではアジア系が6人、アフリカ系が2人、それ以外が全て所謂白人と圧倒的なマイノリティだった。そのような理由もあり、自分のマイノリティとしての出自を意識する機会が多かったと言っていた。

そんな中、60年代後半、70年代前半から徐々に強制収容所について政府に謝罪を求める動きが広がり、ジュリーさんも加わるようになった。その間収容所に入っていた人に沢山会う機会があったのだが、中にはトラウマで当時の体験について話している内に髪の毛が抜けてしまう人もいたそうだ。最終的には1988年に当時のレーガン大統領が日系アメリカ人補償法に署名をし、アメリカ政府として公式に日系アメリカ人に謝罪をし、署名した日に生存している被強制収容者全員に対してそれぞれ2万ドルの補償金を支払った。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強制収容所体験を全米の学校で教えるため、12億5,000万ドルの教育基金が設立された。なお、第二次世界大戦中に強制収容所に送られた日系アメリカ人は12万313人にものぼる。強制収容所について語ろうとしなかったお母様もこのような活動をしていたジュリーさんを誇りに思っていたようだ。

参加者から(第二次世界大戦後と比べて日本が経済成長を遂げて大国になったことを念頭において)現在のアメリカにおける日系アメリカ人の地位の変化についての質問があったのだが、ジュリーさんはマイノリティであることに変わりはなく、”No minority is better than others.”と言っていたのが印象に残った。ただ、シカゴのサウスサイドに住んでいた時などは(アフリカ系アメリカ人のことを指して)、他のマイノリティでいたいと思ったことはあったようだ。また、今も続いているチャレンジとして、”I wish I could speak up more.”とおっしゃっていた。今でもマジョリティを占める所謂白人達の中に混じると自分の発言がかき消されてしまうのではと思うことも多く、もっとassertiveになりたいと言っていた。そして、自分を鼓舞してマイノリティとしてやっていくために何かに誘われたり、機会を貰える時には絶対にNoと言わないようにしているのだそうだ。

日本人の僕から見ると日系アメリカ人の方は積極的で明るく、活き活きとご活躍されているようにしか見えなかったのだが、アメリカにおけるこれまでの戦いの歴史と現在に至るまで続くチャレンジについてのお話を聞いて、大変衝撃を受けた。ただ、全く歴史を正当化するわけではないのだが、ジュリーさんをはじめ、これまでお会いした日系アメリカ人の方々はそういった逆境もあってかとてもパワフルで魅力的な方ばかりだと改めて思った。最近はResilience over Strength(絶対的な強さよりも困難から立ち上がる力)というフレーズをよく聞き、また体現して生きている方にお会いする機会があるのだが、困難を乗り越えて来た方々のしなやかな強さは眩しいと思う。

大学院の学生団体でイベントの企画をさせてもらったおかげで、これまで沢山の様々な分野でご活躍されている方々に大学院にお越し頂いて、お話を頂くことが出来た。大学院で日々の課題に追われて勉強をしていると、つい視野が狭くなり、また頭でっかちになりがちなのだが、全く分野の違う色々な方のお話を聞くことができたおかげで、世界は広く、やるべきことは沢山あるのだと再認識でき、毎回大変刺激を受けることができた。大学院での学びを活かして、自分も早くご講演を頂いた方のようなチェンジメーカーにならねばと背筋が伸びる思いがした。

これは、ご多忙で、かつボランティアベースにも関わらず、これまで講演することについてご快諾頂いた方々、またイベントの企画や運営を一緒に手掛けてくれた同級生や参加者、他の大学院の方々のサポートがあってのことで大変感謝している。今回が自分たちで企画をする最後のイベントということで寂しい限りなのだが、このいつもeye-openingな贅沢な機会のおかげで留学生活をとても豊かなものに出来たと実感している。大学院ももう残すところあと1学期ほどとなってしまったが、これからも更に学びの機会を持ちたいと思う。ひとまず、皆さまありがとうございました。

(写真はクリスマスモードのキャンパス)

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