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お椀

 ここ何年も、ずっと変わっていないと思うものに、食器棚がある。

 それもいつ使ったのか、いつ使うのか、果たして使ったのか、それすら覚えていない様々な食器が、所狭しとぎゅうぎゅう詰めに、食器棚に詰め込まれている。

 そんな中で、いつも使っている食器はこの場所と決まっている場所が、我が家の食器棚の一角にある。

 きっと、どこのお宅でもそうだろうが、食器棚とはそういうものである。

 ある日の朝、朝食を食べている時に、ふと私のおみおつけの入ったお椀だけ、非常に安っぽく古ぼけたものであったことに気づいた。

 とても薄くて軽いのである。

 薄くて軽いと来たからには、熱々のおみおつけを 飲もうとお椀を手に取ると、当たり前だがその指先におみおつけの熱さが薄いお椀から、私の指先に伝わって来る。

 その熱さに耐えながら、私はおみおつけを飲むか、又は少し人肌に冷めた頃を見計らって、おみおつけを飲むか、どちらかしかなかった。

 それがここ何年かの私であった。

 私は食器棚を眺めて、こんなにも使っていないお椀が山程あるのだから、もうこちらの新しいお椀に、新しいとは言ってもずっとそこに置かれてあったものであるから、正確に申し上げると新しくはないのだが、それでも未使用であるそのお椀を使おうと、私は今まで世話になった薄手のお椀を流しの隅の方に、礼を言って追いやった。

 そして、ある夜、そのいくらか上等な新しいお椀で、私はお吸い物を飲んだ。

 前に使っていたお椀と、形も厚みも重みも全てが違うせいか、持った時にしっくりこない。

 しっくりこないながらも、きっと使っていくうちに手に馴染んでいくだろうと私は思った。

 その日の夕食が終わり、洗い物をした時のことだった。

 朝食の時まで世話になっていた、薄手の古びたお椀が流しの隅の方に追いやられているのを、改めて私は見た。

 そうやったのは私なのだが、何だかお椀に対して申し訳ない気持ちになってしまったのである。

 お椀は茶碗と違い、滅多なことでは壊れるということがない。

 塗りが剥がれて来るか、ちょっとぶつけて薄くヒビが入るくらいで、そのせいで吸い物が漏れて来るということもない。

 そんなお椀を気がつけば、五年十年と私は使っていたのである。

 何だか人知れぬ寂しさを感じてしまった。

 十分にこのお椀は私のために、熱いものを毎度のことながら注がれ、私が食事をするためにそれはよく働いてくれた。

 けれど、いざ手放すとなると何だか済まない思いが込み上げて来て、仕方がないのである。

 そうかと言って、家に有り余る程のお椀があるというのに、それを使わずして処分すること程、冥利の悪いことはない。

 そう考えると、今時大勢の客人をもてなすということもない我が家では、残ったお椀は私が死ぬまで使っても使い切れぬ程の数が、食器棚にその出番を待って静かに眠っているのである。

 どちらの立場を考えても、何だか私はやり切れない気持ちになってしまったのである。

 こんなに食器棚がパンパンなのは私の責任ではないにしろ、やはり物は最小限に留めておくのがいちばんである。そして、壊れるまでとことん使ってやるのがいちばんだと思った次第である。

 そんなお椀についでコップや皿、鍋や茶碗が自分の出番は今か今かとじっと息を潜めて待っているのかと思うと、出来るだけ早く使ってやりたいと私は思うのである。

 使われてこそ、物の冥利というものである。

 これを書き上げて、掲載するまでに約二ヶ月が過ぎた。あれ程、気に病んでいたお椀がいつの間にか 消えていた。
 捨てると決めたものを、いつまでも台所の片隅に 放っておいても仕方がないと、見兼ねた母が捨てたのだろう。

 こうやって、いつの間にか消えていくのが私の理想の最期でもある。

         2023年2月27日・書き下ろし。

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