見出し画像

花一輪

 急な来客がある時、茶菓子はあるか、茶葉は古くないか、湯呑みは季節に合った柄が描かれているか、茶托はあるか、そんなことに気を取られて、約束の時間ギリギリになって、なんとなく玄関に今一つ華やぎがないことに気づくと、どうにも気持ちがそわそわして仕方ない。そんな時は、庭に咲いている花を飾ることを思いついたりする。

 たった一輪でも、下駄箱の上に飾ると殺風景な玄関、というよりも、何となく締まりのない玄関がほんのわずかだが、パリッと引き締まったような、改まったような気がするものである。しかし、これはあくまでも一輪挿しがあってのことである。

 この一輪挿しというものは、年に数回だがとても活躍してくれる。なければないでどうってことはないのだが、やはり、いざという時に助けてくれるのである。

 普段の生活の中で、一時の安らぎや潤いというものが欲しいと感じた時などは、茶箪笥の奥に眠っているいつ使ったのか、それとも使っていないのかわからない少し古ぼけた小さなコップに、何の気の張りもなく一輪、そっと挿し込んで飾って愛でればいいだけのことなのだが、客人をもてなすとなるとコップでは塩梅が悪いのである。

 今更気を遣ったところでどうすると、居直ってしまってもそれまでの話だが、こういったところに目が行き届かない奴だと思われるのが、なんだか私は本意ではなく、せめてそういうところだけはきちんとしておきたいと思うのである。

 小さな見栄とでも言うのだろうか。

 私の祖母は、花をもらえばそれはそれで喜ぶ人であったが、こと大きな花束を私が贈るとなると勿体ながって、いつも「花は食えないんだから」というのが口癖だった。私の頭の中にずっとその言葉が残っているのだろう。花に金をかけてももったいないという思いがあるせいか、人に花を贈ることも滅多にない。贈るとしても、やはり私はいいとこ薔薇の花一輪くらいのものである。素敵な人に花束なんていらない。薔薇一輪で十分なのだという思いが、私の中にひとつの信条としてあるのである。

 相変わらずケチな奴だと、自分がほとほと厭になるが、私が敬愛してやまない大好きな女優さんに初めてお会いできた時、私は薔薇の花を一輪渡した。その時、何だかしっくりしたのである。強ち間違いではないような気がしたのである。

 一輪挿しの話からだいぶ話がずれてしまったが、客人を歓迎する意味でも花一輪ぐらいは飾って出迎えたいものである。それに気づいて目を留めてくれる人だったら嬉しいが、果たしてそんな人が今の時代にいるのかどうか。

 それでも私は、これからも一輪挿しに花を飾り、人を出迎える人間でありたいと思うのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?