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ただ生きるのか、どう生きるのか。

政府が強権を持ち、民衆の自由を制限するという事態は、決して急に発生することではない。大衆の要望という名のもとに振りかざされる正義や大義によって、いつの間にか自由が制限される。それも、大衆の熱気とともに。私たちは歴史からは勿論、スターウォーズでダースシディアスことパルパティーンが非常時大権を握り自らを皇帝と名乗るまでの過程でそのことを学習したはずである。

にも関わらず、私たちはこのCOVID-19の感染拡大が進む最中で、自らの自由を政府に差し出し、それに従わぬものを罰則する権利を与えようとしている。
「我慢が効かず、勝手気ままに振舞う人がいる」ことで「生きたくても生きれなかった人がいる」という正義。これは揺るぎない多数派の正義であり、だからこそ大義になり得る。
ただ、正義は一つではないし、多数派の正義が絶対の正義ではない。
人が「生きる」とは何かを考えた時に、多数派ではない声なき少数派である所謂「サイレントマイノリティ」の正義が見えてくるように思う。

昨年からずっと頭の中でグルグル巡っていたそのことを、言語化しきれるかは分からないけど、綴ってみたい。

昨年の緊急事態宣言の中で、そしてまた今現在も「不要不急」という言葉が横行した。その「不要不急」の捉え方については、人によって様々な解釈があり、SNS上でもそれに関する批判や寛容に関する議論或いは主張や評論はあちこちで起こっていた。
大方は「ビジネスに関することについては必要緊急である」という解釈で、それに関しては「まあ、致し方がないよね」という感覚であったと思う。一方、歌舞音曲や遊びや観光といった類については「不要不急」とみなされ、自粛を迫られる傾向にあった。常に監視の目が社会の中で働き、何かあれば批判が飛ぶような状況だったと記憶をしている。フェス、ライブ、ミュージカル、歌舞伎、人との交流、などなど、様々な行動や企画が「不要不急」の名の下に、批判の対象となった。

なるほど、確かにビジネスというものは自らの「なりわい」であり、生活する金銭を稼ぐためのもので、それを止められると生きていけなくなるかもしれない。生きていく上は必要で、緊急性のあるものなのだろう。
では、翻って「決して生きていく上では必要でも緊急でもない」と見なされていた歌舞音曲の類は、一体全体、私たち人間にとってどんな意味を持ち得るのだろうか。生きる上でなくてもいいものが、何故私たちの社会に、それも随分と昔から存在してきているのだろうか。

今年度、私の住む塩尻市では「アーティストインレジデンス」を開催した。ANAの持ち込み企画で、有志で立ち上げた「塩尻市アーティストインレジデンス実行委員会」で私も副実行委員長という立場になり、受け入れに携わった。
絵画云々は好きなものは好きで、竹内栖鳳とか鏑木清方などの明治以降の画家や、セザンヌやフェルメールあたりは展示会に行って好きになったのだが、現世の芸術や美術に関しては全くの門外漢。
で、あるからこそ「地域にとってアートはなぜ必要なのか?」を、実施にあたって色々とウニャウニャ考えたりしていた。そもそも地域に「アート」なんてなくても多分生きていけるし、それこそ不要不急なものである筈なのに、何故「アーティストインレジデンスをやるのか」について、色々ディスカッションをさせてもらった。

それに行き着くまでの思考プロセスについてはまた別で書きたいのだが(また書く書く詐欺を重ねてしまう。。。)、自分の中ではアートというものは「心を豊かにする滋養」のようなものだという理解が、一番腹に落ちた。
生きていく上で必要な衣食住ではなく、別になくても死なない。
ただ、アートがあるからこそ自身が日常で触れなかった視野や視点が得られ、社会の中で様々な広がりを目の当たりにでき、また自身の表現手段を見つけることができる。その結果、心が豊かになり、安らけく生きることができるものなのではないかと。そしてそれは、アートのみならず歌舞音曲全般に言えるのではないだろうか。生きる上で必要ではないが「よく生きる」ために必要なもの。
何がそうであるかは、人それぞれで異なるのだろうけど。

昨年の9月13日に、山梨県は八ヶ岳の麓、サンメドウズ清里で開催された「ハイライフ八ヶ岳」というフェスに行ってきた。これまでフェス経験は1回、2018年に木曽で開催された「TAICOCLUB」に友人に誘われて行ったのみだ。大して音楽に精通しているわけではない(正確には名古屋在住時に豊田で開催された「橋の下世界音楽祭」という癖の強いフェス?に行ったことはあるけれど)。
ガンガン盛り上がって密集してウェイウェイやりたいわけではなく、音楽を遠くに聞きながら、それを眺めてビールを飲みたいと思い、大人気の注目フェスじゃなく割と渋い線を狙ってハイライフをチョイスした。「何かあったら」という不安も無論抱えつつ、SNSにも上げずに友人と妻の3人で行ってきた。

ハイライフ八ヶ岳は、予想以上にいい雰囲気だった。
天気は残念ながら曇り、というか霧。私たちはステージ前に距離をとって並べられたキャンプチェアの後ろの芝生ゾーンに持参した椅子を並べて陣取った。所謂「フェス!」みたいな感じではなく、各々が音楽を聞き入り、一緒に来た人たちと静かに楽しんでいる。ビールを飲みながら小さなステージを眺めて、霧で幻想的な雰囲気に包まれながら、加藤登紀子の歌を心地よく聞いていた。
今振り返ってみても、あの時のあの時間は、きっと自分にとってのっぴきならないくらい「必要」だったのだと思う。なくても確かに生きてはいけた。でも自分が心豊かに生きていく上で、なくてはならないものだったのではないだろうか。

ハイライフ八ヶ岳で加藤登紀子がこんなことを話していた。
「日々、新型コロナの感染者数が増えている」「ある日、自分はその数字しか見ていなかったことに気がついた」「その数字の先に、一人一人の生やストーリーがあることに想像が及ばなかった自分がいた」「その人自身がどんなに苦しく、頑張っていることか。本当は、飛んでいって、一人一人抱きしめたい。『辛かったね、大変だったね』と、手を取って、抱きしめに行きたい」と。
なるほど、私たちはニュースに触れる時、確かに数字や肩書きやレッテルの表面上でしかものが見えにくくなっている。感染者数の増加、クラスターの発生した飲食店、会食に参加した人、その他大勢。その先にある人の顔にまで想いを馳せることがどのくらいあっただろう。

2020年の自殺者数が、11年ぶりに増加したという。
前年比750人増。男性は減ったが、女性が885人増えている。また、0~29歳の自殺も増えたようだ。
個人的にショックを受けた一方で「そんな気がしていた」という感覚もある。


COVID-19と自殺者の増加の因果関係に関しては、分かりようがない。彼らがどのような苦しみの中にあったのか、そして自死という選択肢を決断したその想いは、どれだけ想像しても想像しきれない。
ただ、その中にはもしかしたら、ただ生きていくのに必要な衣食住は全て満ち足りていながら、よく生きるための心を豊かにするものが不足していて。テレビやSNSから入ってくる様々な人の情念や想いが雑音のような心の片隅にしこりのように残って、それがじわじわと自分自身の中に浸食していって。そこから逃れられる術を探しきれず、がんじがらめになりながら孤独の中で選択をした人もいたのではなかろうか。
自分は塩尻という場所で、妻や仕事云々でなく信頼できる人が周りにいて、都会ほどがんじがらめじゃない中で暮らしていたから、車で人がいない場所に出かけたり、自然の中で心安らげる時間と空間を作ることができた。ただ、都会にいればどうだっただろうか。様々な人の情念が入り込んで、逃げ場所がない街で、自分は耐えきれていただろうかと考えると、確実な自信を持って是とは言えない。

社会人になって初めて赴任した場所は、名古屋であった。思い返せば、名古屋はひたすらに孤独だった。
心許せる友人が常に近くにいるわけではなく(それでも、1時間近くで行ける工場に同期がいたのはまだ幸福であった)、街は住宅地が広がり自然の香りがせず、人の欲望を掻き立てるためのネオンに溢れていた。その孤独を紛らわすために、その場限りの酒と人を求めた。仕事の帰りや土日の夜、別に飲みたい気分でも飲む必然性があるわけでもないのに、酒を飲み人と話したくなり、ネオンの輝く街に足が引き寄せられていった。その度に、心は豊かになるどころか、どんどん擦れていった。

自分の心を豊かにするわけでもなく、欲してすらないものなのに、あたかも自分がそれを欲しているように錯覚して、手を出してしまうように設計されているものが資本主義というものの社会構造だと思う。消費をさせて、浪費をさせるような社会システム。
COVID-19で様々な行動が制限されている中で自身が向き合えるものこそ、そのような社会システムに踊らされない「自身が真に心を豊かにするために必要なもの」なのではないかと感じる。自分が「よく生きる」とは何か、「よく生きる」ためには何が必要なのか、誰と一緒にいたいのか、どんな環境で生活を営みたいのか。
自分にとって、本当に大切なものは、なんなのか。

「生きたくても、生きれなかった人」がいる。
その様子はテレビで放映されやすく、情報がキャッチしやすい。それ故に、イメージがしやすく想いを馳せやすい。結果、そのことをベースに様々な正義の論調が生まれやすい。
正しい正しくないじゃなく、良い悪いでもなく、それが声多き多数派の一つの正義であることは紛れもない事実だ。

一方で「ただ生きるだけでなく、より豊かに生きたいのに、生きれなかった人」もいるのではないだろうか。
その人たちが本当にそうであったかは、誰にも分からない。心底の想いは誰にも知る術はなく、推測の域を出ることはないだろう。それ故に、そこに光を当てる人は少なく。それ故に、想いを馳せづらい。

正義が生まれると、その正義をかざして、自分の意見を表明し主張し、その意見を他人に認めさせて通したくなる。一つの「正義」には、人をそのように酔わせるような美酒のような効果がある。
その正義は正義であるが故に、人の情念に安易に入っていく。その正義とは異なる行動をする時に、理由が必要になる。攻撃されるのは嫌なので、異なる正義を打ち立てなければならないような気分になる。そのことが頭の中をグルグルして、いろいろな人の声に思考が囚われて、否応もなく疲弊して、もう何もかも嫌になることが、自分自身でも度々ある。

そんな自分がいるからこそ、推測ではあるが、多分「ただ生きるだけでなく、より豊かに生きたいのに、生きれなかった人」も確実にいるんじゃないかと思う。
自殺者の増加の記事を見た時に、去年から頭の中でモヤモヤと考えていたそんなことがつながって「嗚呼」と思ってしまった。

自分自身は、どう生きていたいのか。

この社会システムの中で、自分の心を豊かにし、自分が本当に大切にしたいものを見失わずにいたい。
それを軸にしながら、自身とは異なる正義を持つ人の顔を思い浮かべながら、バックグラウンドも理解をして、受け止めたい。
そのきっかけになるものが、音楽やアートといったものになるんじゃないだろうか。

相変わらず、COVID-19は世間を賑わせている。
正確に言えば、COVID-19自体の拡大という事象だけではなく、それに対して様々な人が様々な正義を掲げているという意味で「賑わせている」。
しばらく、この状況は続くだろう。

その中で、目に見える多数の正義だけではなく、サイレントマジョリティの正義についても、想いを馳せていたい。
それが、自らがよく生きる上での、拠る辺になると信じて。

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