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天才にまつわる事実は小説よりも…「最も語らぬ取材対象」の教え


記者だから、取材の段取りはしても演出はしない。
スポーツ新聞社からLINE NEWSに移ってからも、そういうスタンスでやってきた。

スポーツの世界には、常識の枠におさまらない才能を誇るアスリートがいる。彼らは、凡人の想定を超える「サプライズ」を起こす。

演出には、そうした天才の可能性に凡人がキャップをはめてしまう、という側面もある。取材を重ねるうちに、そこには気を付けるようになった。

だが一方で僕らは「こういうことが起きたらいいのに」と願ったり、あるいは起きる方に懸けることもある。

その日は、まさにそうだった。

サッカーボール


2018年4月15日。熊本市・えがお健康スタジアムの関係者入り口。
トイレを済ませた僕は、小走りでタツさんが待つ乗用車へと戻っていた。

少し視線を上げる。スタジアムの敷地の中を、ロアッソ熊本のチームバスが走ってくるのが見えた。
そしてその手前、目指す乗用車の助手席の窓からは、タツさんが身を乗り出している。

「早う!もう出発するで!」

これは、あるぞ…。ギリギリありうる。
歴史的な再会の予感にしびれつつも、僕はクルマへと急いだ。

ペン


「タツを取材してみない?」

熊本を訪れる1か月前、僕はそんなご提案を受けた。

反射的に、不安が表情に出てしまったかもしれない。
Jリーグの広報担当・吉田国夫さんはそれを察したように「大丈夫。必ずしゃべらせるから」とおっしゃった。

タツ、とは元サッカー日本代表FW、久保竜彦さんのことだ。
今も多くのサッカーファンの記憶に残る、伝説のストライカーである。

強烈な左足シュート。並外れた跳躍力、バランス感覚を生かしたボレー、ヘディング。
Jリーグでも日本代表でも、語り草になるようなプレーを数多く残している。

僕はかつて、横浜F・マリノスの番記者だった。だから、所属当時のタツさんのすごさは脳裏に焼き付いている。
ただ一方で、その経験があるからこそ「タツさんを取材」というご提案に不安を抱いてしまった。

タツさんは、とにかく記者泣かせの取材対象だったからだ。

サッカーボール


僕がタツさんの取材をしていたのは2006年。
当時の横浜F・マリノスの練習場は、横浜市戸塚区の高台にあった。

練習が終わってしばらくすると、選手たちはそれぞれ家路につく。
僕ら記者が彼らの話を聞けるタイミングはそこだった。乗用車に乗り込む直前に声をかけ、少し時間をつくってもらう。

真っ先に駐車場に現れるのは上野良治さん、奥大介さんといったあたり。
そして、その後くらいに現れるのがタツさんだった。

タツさんは、ジーコジャパンのエースストライカーと目されていた。
その年のドイツワールドカップで活躍することを、日本中から期待されていた。

だから毎日のように、コメントを求める記者に取り囲まれていた。
連日の対応は大変だったと思うが、逃げるような人ではない。記者が声をかければ、必ず立ち止まってくれた。

ただ、まったく会話が続かない。
何を聞かれても「そうっすね」「ないっすね」としか言わないのだ。

そして、質問が途切れると「いいっすかね」と言って、乗用車に乗り込む。そして、小さくお辞儀をして、走り去ってしまう。

取材の輪をつくっていた記者は、無言のままに各所に散る。
みんな、物陰で電話をしながら、ペコペコと頭を下げている。おそらく「今日もタツさんで記事を書くのは難しい」と会社に報告しているのだろう。

かく言う僕も、盛大に頭を下げて、デスクに謝っている。

ガラケー


「コメントが取れないから記事が書けない、なんていうのはガキの言い分だ。何か考えろ!」

そう言って、電話をガチャ切りされる。
当時の取材現場では、そんなことは日常茶飯事だった。慣れてはいた。だが、毎日のように続けば、さすがに参ってくる。何かやらないと…。

選手のキャッチフレーズ。あるいはユニット名。
そんな語呂合わせ的な記事が、スポーツ紙の紙面に唐突に躍るというのは、たいていこういう時だ。

それに手を染めるしかない。僕はそう思った。
どんな語呂合わせがいいだろうか。久保竜彦、タツさん、ドラゴン久保…。

そうだ、タツさんの愛称「ドラゴン」を使おう。

プロレスファンの僕にとって、ドラゴンと言えば藤波辰爾さんだった。
藤波さんの必殺技のひとつに、ロープ外の対戦相手に向かって放つダイビングヘッドバッド「ドラゴンロケット」があった。あの動きなら、サッカーのダイビングヘッドと重ねられそうだ。

次の日。僕はプロレス担当記者にお願いをして、新日本プロレスの事務所に入れてもらった。
そして藤波さんの部屋に通してもらい、こうお願いをした。

「藤波さんのドラゴンロケット、久保竜彦選手に譲ってもらえませんか!」

ペン


次の日の日刊スポーツのサッカー面には、大きく「久保 ドラゴンロケット継承か」という見出しが躍った。

「ぜひ、サッカー流のドラゴンロケットをつくってほしい」

藤波さんが僕の記事のために、そうコメントをしてくださったからだ。

会社の同僚、上司は「そうきたか」とほめてくれた。
TBSの土井敏之アナなどは、さっそく次の試合の実況で「出るかドラゴンロケット」と入れてくださった。

ただ、自分としては、あまり達成感はなかった。
藤波さんのご対応は本当にありがたかった。話の筋としてまったく面白くなかった、とまでは思わない。

だが、元をたどれば「本人が話さないから仕方なく」でしかなかった。


つまり、である。
タツさんはそれほどまでに、駆け出しの記者にとっては「難しい取材対象」だった、ということだ。

ワイングラス


「ホント、大丈夫だから。タツは必ず話してくれる」

2018年4月14日、熊本市内。
夕食に向かう道すがら、Jリーグの広報担当・吉田さんは弱気になる僕を、ずっと励まし続けてくれていた。

店に到着し、席に通されて驚いた。
その席は、ロアッソ熊本のゼネラルマネージャーである織田(おりた)秀和さんが設けられたものだった。

顔ぶれは豪華だった。
U-21日本代表監督の森保一さん、同代表のGKコーチ下田崇さんは、のちにフル代表でもお仕事をされることになる。FC東京のクラブコミュニケーターを務めている石川直宏さんもいた。

「LINEの塩畑さんです。明日の試合を取材してくれます」

吉田さんがそう紹介してくださった。

サッカーボール


翌15日、ロアッソ熊本のホーム公式戦が「復興支援マッチ」として行われることになっていた。熊本地震から3年という節目にあわせたものだった。

会場では、被災地の子供たちを対象に、サッカー教室も開催される。
食事の席に集まっていたのは、そこで講師を務める方々だった。

吉田さんはこの席で、タツさんと僕を引き合わせようと考えていた。
サンフレッチェ広島のOBである織田さん、森保さん、下田さんにとっては、直系の後輩。それもあって、タツさんはこのサッカー教室に招かれていた。

だが、食事の席にタツさんの姿はなかった。
何らかの事情があったようで、合流が大幅に遅れていた。

1時間ほどたった。
店のスタッフに案内されて、タツさんが個室に姿を現した。

「おー!大丈夫じゃったか!」

織田さんや森保さんが声をかける。

「すんません、とりあえずビールでええすか。のどがカラカラで」

まったく返事になっていなかったが、大丈夫だったということだろう。

タツさん


そこからは、タツさんの独壇場のようになった。

織田さんや森保さんが、若き日のタツさんの破天荒なエピソードを披露し、本人が事実と認める。とても書けない話ばかりだった。

「記者さんじゃろ?書かんでくださいよ。頼んます」

タツさんは話の合間合間で、僕にそう念を押してきた。
なぜ、こんなに腰が低いんだろう。不思議に思った。食事が終わったところで、その疑問は解消された。

吉田さんが「タツはもう一軒行くんだろ?塩畑さんも行くから。若いし」と何気なく言った。
「ん?若い?」。タツさんがすごい勢いでこちらを振り返る。

「あの、失礼じゃけど、おいくつですか?」
「1977年生まれなんで、タツさんの1つ下です」
「はああああああ?」

よく分からないが、絶句している。

ガラケー


しばらくして、タツさんはようやく口を開いた。

「なんや…年下ね!ってことは、マリノスの時も年下じゃったってことか!」

深々とため息をつくと「これ持て!」と旅行鞄を突き出す。
そして僕の頭をペチンとたたく。

早う、ついてこいや!
そう言って、タツさんは先に立って夜道を歩きだした。

ビーチサンダルがペタペタと音を立てている。

タツさん


少し深酒になった。
だが、そんな時でもタツさんは、朝日とともに目覚め、動き出すらしい。

翌日の早朝。
えがお健康スタジアムに隣接するグラウンドでは、予定通りサッカー教室が開催されていた。そして予定通り、タツさんも講師としてそこにいた。

ニコニコと笑いながら、あの「ドラゴン」が子供たちと一緒に走っている。
僕はその姿を見ながら、前夜のことを思い出していた。

タツさんは饒舌だった。4時間くらい、ずっと話していた。
広島での暮らしのこと、子育てのこと、そしてサッカーのこと。どの話も面白かった。一瞬たりとも退屈しなかった。

番記者としてご一緒した1年間では、ついぞ見なかった姿だったな。
そう総括しかけて、急に思い出した。

そういえば、たった1度だけ「饒舌なタツさん」を見たことがあった。

ペン


2006年のある日。
元大洋ホエールズの屋鋪要さんが、マリノスの練習場を訪れた。

「テレビ東京でスポーツキャスターをさせてもらっているんで、これからはサッカーも勉強しないと」

そうおっしゃって、熱心に練習の様子をごらんになっていた。

練習後。いつものように、タツさんが早めに出てきた。
様子が普段とは違った。周囲を見回し、誰かを探している。

「どうしたんですか?」。話しかけると、食い気味に「屋鋪さん、どこぉ!」と返ってきた。

練習終了とともに帰られたと説明すると「マジかぁ」と肩を落とした。

「好きじゃった…大好きじゃったんよ…。オレ、あの人にあこがれて…」

ボール②


そこから10分ほど、タツさんは「屋鋪愛」について語り続けた。

「高木豊さん、加藤博一さんとでスーパーカートリオ。中でもオレは屋鋪さんが好きじゃった」

3年連続の盗塁王。5年連続のゴールデングラブ賞。2年連続の打率3割。
80年代半ば、走攻守そろった全盛期の屋鋪さんにあこがれて、タツさんはサッカーではなく野球に熱を入れていた。

少年野球の花形である「4番でピッチャー」には見向きもしない。
1番センター。屋鋪さんと同じ打順、ポジションにこだわった。

屋鋪さんはその後、大洋で徐々に出場機会を減らしていった。それとともに、タツさんの野球熱も少しずつ冷めていった。
ちょうど1986年、サッカーワールドカップメキシコ大会で、マラドーナという人生のアイドルを見つけたこともある。

タツさんはやがて、野球よりサッカーを選んだ。
だが、屋鋪さん個人への思い入れは、簡単に消えるようなものではなかった。

タツさん


熊本の夜。タツさんは、熱を込めて話してくれた。
あの日、屋鋪さんについて語っていたように。

「シオ、お前も娘には山を走らせんさい」

岩だらけの道を走ると、身体のバランスを保とうと、細かい筋肉、神経までが刺激される。
すると、どんなスポーツでも通用する基礎体力、バランス感覚ができる、ということのようだ。

「ワシもサンフレッチェに戻って、ミシャさんが監督の時に、よう山を走ったんよ。ミシャさんのサッカー、面白かったけんのぅ」

タツさんは日本代表のエースとして、2006年のドイツワールドカップでの活躍が期待されていた。
だが、腰やひざのけがもあって、本大会出場メンバーから落選。そして2006年のオフ、盟友の奥大介さんとともに横浜FCに移籍をした。

そこでもけがは続いた。たった1年で戦力外通告を受けてしまった。
そんなタツさんを受け入れてくれたのは、古巣のサンフレッチェ広島だった。

当時の広島では、就任から半年の「ミシャさん」ことミハイロ・ペトロビッチ監督が、攻撃サッカーを選手たちに教え込んでいるところだった。そこに身を投じたタツさんは、久々に心が躍ったのだという。

トップフォームを取り戻して、ミシャさんの攻撃サッカーを楽しみたい。
その一心で、タツさんは来る日も来る日も山を走った。

若返りの方針もあって、思うように試合には出られなかった。
だが、山を走っての肉体改造に手応えはあった。練習をやっているだけでも楽しい、と思えるまでになった。

日本酒


「オレももっと早うから、山を走っちょればよかったと思う。ほじゃけん、娘には山を走らせるんよ」

タツさんはさらに語る。

かつて「噛み合わせの問題が身体のバランスを悪くし、ケガにつながっている」という指摘を受けたことから、娘たちにはよく噛まないといけない食べ物を意識して与え、歯並びも矯正した。

「情報をもらいすぎて、生き抜く力が損なわれた気がする。娘たちには生きていく方法を自分で考えさせたい」と、自宅からテレビを撤去した。

子供たちの「お手本」にもこだわった。
まったく面識のなかった澤穂希さん、国枝慎吾さんらを訪ねて頭を下げ、練習を近くで見られる機会をつくってもらった。

「超一流を実際に見れば、それだけでいろいろ感じ、考えることはできる。自分で気づける。オレもジーコさんに会った時がそうじゃった」

タツさん


子育てという分野だけでも、タツさんの話は尽きなかった。
そして「実体験」に基づく言葉には、重み、説得力があった。

一夜明けて、サッカー教室のピッチ。

タツさんは、子供たちとハイタッチをする時に、わざわざ高いところに手を掲げる。そうやって、全力のジャンプを促していた。
その姿をみているうちに、元・番記者の僕には、ストンとひとつの答えが落ちてきた。

思い入れがあること。自分できちんと確かめたこと。
それらを端的にではなく、しっかりと話し切ることができる時間さえあれば、タツさんは話をしてくれる。

しゃべるのが苦手でも、嫌いなわけでもない。
遅ればせながら、そう気づいた。

サッカーボール


サッカー教室は盛況のうちに終わった。
子供たちはグラウンドから、隣接するえがお健康スタジアムの方へと移動していく。

昼過ぎに、この日の「メインイベント」が待っていた。
地元のロアッソ熊本が、熊本地震・復興支援マッチと位置付けられた公式戦、東京V戦に臨む。

タツさんはその試合を見ずに、会場を後にすることになっていた。
もともと予定が入っていたためだ。午後に福岡の大牟田で、旧知と待ち合わせだという。

Jリーグの広報担当・吉田さんは、サッカー教室が終わるあたりから、何度も腕時計を眺めていた。

「本当はタツが会場を出る前に、巻とバッタリ会ってくれたら…なんだけどね。ロアッソの会場入りまで、まだ時間があるから難しいか…」

タツさんが2006年のドイツワールドカップの出場メンバーから落選した際、代わりに「サプライズ選出」されたのが、巻誠一郎選手だった。

そのふたりが12年の時をへて出会う。
それは確かに、特別なことだった。

ペン


吉田さんが急に顔を上げた。
「…タクシーと電車、じゃなきゃ可能性あるかな」とつぶやく。

「大牟田まで直接乗用車で向かった方がだいぶ速い。その分、ここを出るのを遅らせられる。その間に、ロアッソがスタジアムに着いてくれたら…」

僕は、レンタカーでタツさんを大牟田に送り届ける、と申し出た。
吉田さんは小さくうなずくと、タツさんが着替えをしているロッカールームに入っていった。

僕の隣には、LINE NEWS編集部のカメラマン、松本洸さんがいた。
朝イチの便で東京から来てくれていた。その横顔に緊張がみなぎる。

「その瞬間、ですよね。おさえるべきは」
「はい。ものすごく大事な写真です」

吉田さんが戻ってきた。
タツさんは素直に、レンタカー移動の提案を受け入れてくれたという。

「ただ、さすがに『巻が来るまで待ってて』とは言えない。せめて、できるだけロアッソの選手がスタジアムに入る動線の近くに車を止めておいて」

そう言い残して、またどこかへ走っていく。

スマホ


僕は急いで、レンタカーを動かした。
ロアッソのロッカールーム入り口近くに停車させる。

エンジンを切った瞬間、カメラマン松本さんが助手席から飛び出していく。
スタジアムの外周通路の真下で、あたりは薄暗かった。おそらく、撮影場所になると思われるあたりの光量を確かめに行ったのだろう。

スマホが鳴った。吉田さんだ。

「タツがそろそろ行く。ちょうどチームバスも接近しているみたい。これは本当にあるかもしれないよ」

電話を切るのとほぼ同時に、後ろの方から「おお、すまんのう」と声がした。
タツさんだった。後部座席を勧めたが「えらそうで好かん」と言って、松本さんに代わって助手席に陣取った。

「ほじゃあ、行くかのう。遅刻したらいけんけぇ、早う頼むわ」

タツさん


このままでは、すれ違いに終わる。

そう思ったとき、タツさんが「忘れもん、ないよなぁ」と身の回りを気にした。

僕はその瞬間、とっさに「あっ、そうだ。トイレ行っておきます」と言って、運転席のドアを開けた。

タツさんの表情が曇る。
「はあ?急がにゃいけんのに…なんでワシが来る前に済ませとかんのよ」と怪訝そうに言う。

僕はとりあえず平謝りをする。
どれくらいでチームバスが来る、といった計算があったわけではない。

久留米まで、高速道路で1時間。トイレを済ませておいた方がいいのも間違いなかった。
とはいえ、言うまでもなく「このままでは何も起きないから、なんとか…」という思いから出た方便、だった。

タツさんも間違いなく、不自然さを感じただろう。
だが、すぐに「…まあええわ、早よ済ませんさいや」と言った。手を小さく振って、僕を送り出してくれる。

ペン


さすがに申し訳なく思った。
急いで済ませて、走って戻る。

するとレンタカーの向こうに、ロアッソのチームバスが見えた。
にわかに心臓がバクバクといいだすのを感じた。呼吸も浅く、荒くなる。

バスはロッカールーム裏の所定の位置に止まった。すぐに選手がぞろぞろと降りてくる。
巻選手は一番最後に出てきた。そして、レンタカーの運転席に乗り込もうとする僕の姿に気づいてくれた。

彼と僕とは、ジェフ千葉時代から、10年以上の付き合いがある。
「おっ、おつかれさまです!こんなところでどうしたんですか?」と言って、こっちに向かってくる。

僕は必死に助手席側を指さし、タツさんの存在を知らせた。

サッカーボール


「タツさん?タツさんですよね!」

「おお!マッキー!」

そうか、マッキーと呼ぶのか。
それすら知らないくらい、2人が交流している姿というのは記憶になかった。少なくとも、あのワールドカップのメンバー発表の後は会っていない。

タツさんは、ジャージの裾で手のひらをごしごしと拭く。
そして、巻選手としっかりと握手をした。

「地震の後、被災地を駆けずり回っとったんじゃろ?聞いたわぁ」

この言葉に、巻選手は一瞬驚いた様子を見せた。
そしてすぐに、心底うれしそうな顔をした。

いつも超然としているタツさんが、そこまで自分の活動を知ってくれているとは思わなかったのだろう。

「マッキー、試合じゃろ。早う行きんさい」

タツさんはそう言って、笑顔で巻選手を送り出した。

コーヒー


「マッキー、元気そうじゃったな。会えてよかったわ」

タツさんは助手席で、終始うれしそうにしてくれていた。

僕はタツさんを大牟田の駅前まで送り届けた。
そして、えがお健康スタジアムに戻って、復興支援試合を取材した。

翌日の夜。
熊本市新市街のミスタードーナッツで、巻選手と落ち合った。

「タツさんの代わりというのは、あまりにも荷が重すぎました」

彼は率直に、そう言った。
圧倒的な身体能力、センスを武器に、ひとりでも状況を打開してしまう。そんな超人めいたタツさんと巻選手は、まったくタイプが違った。

なぜ、自分が選ばれてしまったんだろう。
そんなことすら思った。

選ばれるのは光栄で、ありがたいことだ。
だから「なぜ」なんか言ってはいけない。そう思って、誰にも悩みを打ち明けられなかった。

サッカーボール


ドイツでは、日本はいいところなく1次リーグで敗退してしまった。
だから余計に、大会後も巻選手の胸に複雑な思いは残り続けた。

巻選手がタツさんの代わりに選ばれたことに、ひとつの意味を見出せたのは、それから10年もの月日がたってからのことだった。

熊本地震の被災地。
ワールドカップのメンバーに入った地元のヒーローのことを、被災者はみんな知ってくれていた。

だから、巻選手の支援活動は、どこの避難所でもすんなりと受け入れられた。
ワールドカップに出たからこそ、いま故郷の力になれている。初めて前向きになれた。

そして震災から3年後。
他でもないタツさん本人から、労をねぎらわれた。

「うれしかったです」

巻選手がそう言うのを聞いて、僕はある可能性に気づいた。


タツさんは最初から、吉田さんや僕の目論見に気づいていたのではないか。


その上で「何か大事な意味があるんだろう」と思って、あえて乗っかってくれた。必死さに免じて、目をつぶってくれていた。そんな気がしてきた。

タツさん


「どうでしょうね」

吉田さんは小さく笑って言う。

「でも、あいつは男気があるし、ああ見えてすごく空気も読む。気も遣う。それは確かな気はします」

そう言って、ひとつのエピソードを教えてくださった。

あるJ1公式戦のパブリックビューイングイベントでのことだ。
会場には、アウェーで戦う地元クラブを応援するサポーターが詰めかけていた。大画面に映し出される中継映像をみんなで楽しむ。そして、壇上のタツさんが試合を解説する。そんな趣旨になっていた。

だが、肝心の試合中継が、システムトラブルで中断してしまった。
これではイベントが成立しない。観客はざわつき、スタッフは頭を抱えた。

それを見たタツさんは、おもむろにマイクを手にした。
そして、堰を切ったようにひとり語りを始めたのだという。

復旧を待ちながら、場をつなぐ。
そうやっているうちに、試合は終わってしまった。だが、入場者からの苦情は思ったほどには多くなかったという。タツさんのサッカー談義が面白かったからだろう。

「約2時間、あいつはほぼひとりでしゃべり切ったそうです。自分が何とかするしかない。そう思ったんでしょう。あのタツが…と私も驚きました」

ペン


紙面をつくるために、取材をする。

マリノス担当だったころの僕は、そう考えていた。
だから、タツさんに取材する時も、紙面になるコメントがもらえるようにと質問を投げかけていた。

そして、それに応えてくれないタツさんに「取材対応が苦手な人」とレッテルを貼っていた。
いまさらながらに、自分は至らない記者だったと反省する。

取材に応じる必然性、意義を感じてもらう。
当時の僕には、そこが欠けていた。

そこに「意味」さえ見いだせれば、タツさんは語ってくれる。

例えば子育て。例えば大好きだったアスリートへの思い入れ。
自分だから語れることがある。だから自分が語る必然性はある。そう腹落ちすれば、何時間でも話してくれる。

もっと言うなら「何らか意義がありそうだ」「一生懸命になっている」と思えば、僕らの怪しい挙動にも目をつぶってくれる。
早く次の目的地に行きたいと、助手席で猛獣のようにうなりながらも、我慢をしてくれる。

あらためて「スポーツ取材で大切なことは何なのか」を確認させてもらった気がする。

「ドラゴンロケット継承」のような記事を書く記者の方に出会ったら、ぜひお伝えしたいと思う。
本当に大事なのは、そこじゃないのでは?と。

タツさん


タツさんを取材すると決めた当初から、巻選手には話を聞くつもりだった。

だが、その2人は実際に会って、言葉を交わしてしまった。
さらには、同じように証言を取ろうとしていた当時の代表監督、ジーコさんとも、タツさんは直接会ってしまうことになる。

その経緯も、驚くほどドラマチックだった。
天才はやはり、特別な星の下に生まれているのだろうか。そんなことすら思った。ご興味がある方には、実際に書いた記事を読んでいただくとして…

物語は、当初の想定をはるかに超えるスケールになった。

事前からの青写真にはめ込むような取材なら、帰結も知れている。
想定を外れていってこそ、価値あるドキュメンタリー。あらためてそう思う機会になった。

◇   ◇   ◇



11月26日未明。
タツさんが愛したマラドーナが亡くなった。

ほどなくして、タツさんからショートメールが来た。

「ほんまにしんだんかな」

率直で、飾り気のない言葉。かえって切ない気持ちにさせる。
そしてメッセージには、もう一言添えられていた。


「いつか しおが 会わしてくれるかなって思っとったんや」




◇   ◇   ◇

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