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経理担当は100万再生連発のYouTuber。僕に革命を起こし、サラエボへと送り出した


仕事というのは、ひとりではできないものも多い。


自分がかつて経験した新聞記者の仕事もしかり、だ。
取材をして書くのが仕事。だから事象なり人物なり、取材して描く対象がいなければ始まらない。

相手に取材を受けてもらえること自体も、新聞社に所属しているから。
球団やクラブ、ゴルフツアーへの取材パス申請の手続自体も、すべて会社がやってくれていた。

原稿は書くが、見出しをつけるのも写真をそえるのも「整理記者」と言われる紙面レイアウター任せ。
そうしてできた新聞が、どうやって読者に届くかも、表面的な流れしか知らない。販売局のみなさんに頼り切りでよかった。

取材経費もふんだんに使えた。
その使用申請や精算手続き自体も、経理担当のみなさんにおまかせしていた。

そういうあり方に、疑問を持つこともほとんどなかった。
あくまで分業。自分たち記者は、発信力に長けているから、組織の中で取材領域を担っている。そう自負していた。


だがもしも、である。
後方支援をしてくださるみなさんのほうが、自分よりも発信力を持っている組織に移ったとしたら、どうなるだろうか。

しかも、それを知らないのが、その組織のなかで自分だけだったとしたら…


2017年11月。新宿駅東口の居酒屋。
LINE株式会社にいた僕は、ある食事会の"主役"として、乾杯のあいさつをしていた。

「いい企画記事を書かせてもらって、本当に光栄です。これからもよろしくお願いいたします」

LINE NEWSは、提携媒体からの配信記事を掲載するニュースプラットフォームとして成長を遂げていた。
そんなサービス内で、はじめて立ち上がった自主取材プロジェクト。記者経験のある僕は、企画と取材、そして執筆までをまかせてもらうことになった。

大事な企画初回。
サッカー記者時代のつてをたどり、当時ドイツ2部のウニオン・ベルリンに所属していた内田篤人さんに取材をさせてもらった。

右ひざのケガによる長期の戦線離脱から復帰したばかり。
彼は2年にわたるつらいリハビリを生々しく振り返ってくれた。苦悩の中で、自分と向き合い続けたからこその言葉の重み。話を聞きながら、鳥肌が立った。

書き上げた記事は、たくさんのかたに読んでいただけた。
社内も盛り上がった。書き手を務めた僕も、同僚たちから「さすがですね」と持ち上げられた。

成功祝いを兼ねて、打ち上げをしましょう。
そんな上長の呼びかけで、食事会が設けられた。僕のあいさつには、みんなが拍手で応じてくれた。


帰り道。
ある同僚と地下鉄の改札まで一緒になった。

「そういえば、うちの社内にユーチューバーがいるの、知ってます?」

彼の言葉に、僕は「へえ」と軽く返した。
地道に頑張っている人もいるのかなーー。自然と上から目線になってしまった。新天地での成功で舞い上がっていたからだろう。

だが、続く言葉に、僕は驚いた。

「イトウさんは、特にすごいですよね。100万再生回数をこえる動画を、頻繁に出していて」

100万回…!
内心とても驚いたが、つとめて平静を装った。

反対方向に向かう同僚に手を振り、ひとり地下鉄に乗り込む。
車内でひとりになって、僕はすぐに教わったチャンネル名を検索した。

たしかに、これはすごい。
どの動画にもたくさんの再生回数がついている。

乗降ドアのガラスに映る自分の顔を、思わずまじまじと見てしまった。
おそらく真っ赤になっていたと思う。


自宅の最寄り駅で地下鉄を降りたあとも、ずっと考え込んでいた。

「イトウさん(仮名)」は単なる同僚ではない。
内田篤人さんの取材企画で、経理を担当してくださった方だった。

LINE NEWSの編集部に、記事を自主制作した事例はなかった。
取材経費をどう処理するか。彼女はイチから仕組みを整備してくださった。

一方僕は、取材に経費がかかるのも、それを会社が処理してくれるのも、当たり前の世界で育った。
だから、イトウさんに対しても、そうした「新聞記者の常識」を押し付けてしまっていた。

もっと早く、かんたんに処理してほしいーー。
取材に経費がかかるのは当たり前だから、いちいち内容を細かく確認されたくないーー。

当時の僕は、何様だったのか。
いまこうして振り返っても、とても恥ずかしく思う。

だがイトウさんはとにかく丁寧に、淡々と僕とのやり取りを続けてくださった。「そうなんですね。勉強になります」とまで言ってくれた。

僕は調子に乗って、彼女に対してこんな能書きまでたれていた。

「取材っていうのは、とにかく臨機応変に、惜しみなく先行投資もしながら進めないと、大きな反響につながらないんですよ」


企画の成功を祝う食事会。
イトウさんは笑顔でグラスを掲げながら「本当によかったですね」と僕に声をかけてくれた。

僕は偉そうに言った。

「一緒のチームですから」

自分のその言葉には「サポートしてくれて当たり前」という奢った考えが滲んでしまっていた。
それでもイトウさんは、静かに微笑んでいた。

最寄り駅から自宅までの夜道。
食事会でのそうしたやり取りが、頭の中で蘇る。僕は恥ずかしさに身悶え「ああ、もう」と声に出していた。

彼女は自分の力だけで、大きな反響を得ていた。
それに比べて、自分はどうか。


取材を受けてもらえたのは、自分の人脈があったからだった。
記事としてまとまったものになったのも、インタビュー取材や執筆に慣れているからだったとは思う。

ただ、たくさんのかたに読まれたのは、やはりLINE NEWSに掲載したからだ。
当時、すでに月間アクティブユーザー数は7000万人に迫っていた。そういう場に置いたからこそ、記事は多くの読者に届いた。

もうひとつ大きかったのは、取材対象が内田篤人さんだったことだ。
人気、好感度については、あらためて説明するまでもない。僕が書かなくても、さらにはどこの媒体に掲載されても、彼の記事なら読むというファン・サポーターのかたはとても多いと思う。

そして何より、ベルリンまで急きょ出向いて取材ができたことが大きい。
それは、会社が取材費用を使うことを許してくれたからだ。イトウさんや上長の尽力がなければ、そうはならなかった。


いろいろなものに助けられてはじめて、記事は反響を得るに至った。
それだけなのに、僕はイトウさんに「コンテンツとは」となどと語ってしまった。

彼女こそ、自分の力で反響を生んでいる。
自分だけの企画性、自分にしかつくれない特別な作品で、ファンを集めている。

そんな相手に偉そうに…。
穴があったら入りたい。そんな気持ちになった。そして次に、自分の仕事について、深く考えた。

自分には、あらゆる人を差し置いて取材をさせてもらう必然性が、本当にあるのだろうか。


内田篤人さんの陣営は、大きな反響があったことを喜んではくれた。
拡散力の強いLINEと彼らをつないだことは、自分が生んだ価値だったかもしれない。

だがはたして、あらゆる意味で他の人にはつくれない、特別な機会とまで言えたのか。
「この記者の取材を受けてよかった」と、内田さん本人が強く感じるような企画だったのか。

読者の皆さんにとっては、どんな機会だっただろうか。
この記事を手にとったからこその「かけがえのない体験」というものを、してもらえただろうか。

会社にとっては、どうだったか。
イトウさんたちが駆けずり回って、それなりの経費を捻出してくれた。それに見合うだけの「LINE NEWSの成長につながるようなインパクト」を生めただろうか。

その三方が「よし」となる取材企画。
そうでなければ、きっと自分がやらせてもらう必然性はない。

たまたま取材できる会社にいて、取材できる立場にいた。それだけだ。


食事会で、それなりにお酒は飲んだはずだった。
だが、夜道でぐるぐると考えをめぐらすうちに、酔いはすっかりさめていた。

帰宅したが、まったく寝付けない。
アルコールの力を借りるべく、冷蔵庫から缶ビールを出して開封した。申し分なく冷えていたが、まったくうまいと感じなかった。


競合他社に先んじて、有力選手の単独取材ができさえすればーー。

新聞記者時代は、それがすべてだと思っていた。
内田篤人さんの取材企画を立てたときも、その考えは変わっていなかった。

だが、イトウさんのことを知った晩から、僕は違うことを思うようになった。

企画に関わるすべての人が「特別」と感じられる体験をつくる。
そうじゃないと「自分だからこそ」の仕事にはならない。

ではいったい、どんな企画なら「特別な体験」たりえるのだろうか。


まさに「特別さ」が弱かったからだろう。
時を同じくして、自主取材のプロジェクトは継続が難しい状況に追い込まれた。

会社の上層部から「なぜプラットフォームであるうちがわざわざ自主取材を?」との疑問があがったという。上長は僕に「極めて厳しい状況です」と教えてくれた。

自分はどうすればいいのか。
答えは簡単には出なかった。

休日。イヌの散歩をしながら、あれこれと考える。
ふと、空を見上げた。飛行機が飛んでいく。

あれに乗って、オシムさんの取材にでも出向けたら…。
昔からお付き合いのあるみなさんを頼れば、不可能ではない。

そう思ったところで、はっと気づいた。
これは、今までと同じだ。

他社に先んじて、レアな取材機会をものにできたと自己満足に浸る。それではいけない。
自分が満足するんじゃない。関わる人を満足させないと。

そこで、すとんと答えが落ちてきた。

これだ。
前方を気持ちよく歩いていたイヌの手綱を引っ張って、Uターンをする。

急いだとて、休日だ。すぐに企画を社内提案できるわけでもない。
それでも、気が急いた。できるだけ早く、アイデアを企画書に落とし込みたいと思った。


2か月後。
僕はボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボにいた。

21時の旧市街。石畳の路地を、街灯が照らしている。
多少でこぼこした足元に気をつけながら、元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムさんを、迎えに来たワゴン車まで送り届ける。

礼を言って車から離れようとしたが、肩を掴まれ、引き寄せられた。

「企画したのは君だろう。今回は本当にありがとう」

差し出された大きな手を、おずおずと握った。
少し離れたところで、浦和レッズの阿部勇樹選手が、笑顔でこちらをみている。

僕が立てた企画。
それは、阿部選手とオシムさんの再会の機会をつくる、というものだった。


公園でその企画を思いついた次の週の月曜日。
僕は上長に「オシムさんと阿部選手の12年ぶりの再会、というのはどうですかね?」と持ちかけた。

いつもは時間をかけて企画を吟味する上長が「いいですね」と即答した。

「でも、そんなことできるんですか?」
「阿部選手が所属している浦和レッズさえ許してくれれば、ふたりは喜んでくれるはずです」

例年なら、年末にサラエボまでの旅程を組むことはできない。
浦和レッズはたいてい、元日に決勝が行われるトーナメント戦・天皇杯を勝ち進んでいるからだ。

だがこの年は、9月に行われた4回戦ですでに敗退していた。
アジアチャンピオンズリーグ優勝で出場権を得た世界クラブ選手権が終われば、クラブはオフに入る。

「世界の決勝まで行っても12月16日。その後であれば」

タイミングにも助けられ、クラブからは許しが出た。
オシムさんも阿部選手も快諾してくれた。


脳梗塞で倒れ、志なかばでの帰国を余儀なくされたオシムさん。
そんな恩師をずっと尊敬し続け、かつての教えをあらゆる行動の指針にしている阿部勇樹選手。

ふたりの再会を伝えた記事は、大きな反響を呼んだ。
ツイッターのトレンドには「オシムさん」「阿部勇樹」とそれぞれの名前が並び、タイムラインは好意的な感想であふれた。

多くのアスリートから、連絡ももらった。「自分もああいう企画に参加したい」と。
記者として、企画者として、得難い経験になった。振り返っても、あれこそが人生の転機だった。

かかわるすべての人にとって、特別な機会になるように。
そういう考えで企画をするようになってから、僕は他でもない自分にとって特別な取材機会に恵まれるようになった。

そしてもうひとつ、イトウさんは大事なことを僕に教えてくれた。


オシムさんと阿部選手の企画も、経理担当・イトウさんのサポートなくしては実現しなかった。

内田篤人選手の企画にもまして、大掛かりなものだったからだ。
記事を公開したあともしばらくの間、経費の処理作業は続いた。

イトウさんは淡々と、そして迅速にお仕事をしてくださった。
その横顔を見るたび、僕は「僕が立てた企画について、どう感じているのかな」と思った。

記者畑の自分とは方向性も領域も違うが、ずば抜けた発信力をもったクリエイター。
昔、現場で著名な記者と会ったときに覚えたような緊張感が、彼女に会うといつも僕の中に走った。

そして4年後。
僕とイトウさんは時をほぼ同じくして、会社を辞めることになった。

リモート会議で退社のあいさつをされるイトウさんは、ポロポロと涙をこぼしていた。いつものクールな姿とのギャップに驚いた。

そうか、と僕は思った。

イトウさんは本当に会社が好きだった。
そして、自分の仕事も大事にしていた。

だから僕の企画なども、全力でサポートしてくださった。
誇りにかけて、プロの仕事をされた。おそらく、自分の発信力と引き比べてどうか、などとは一切思わなかった。

自分の会社からのアウトプット。
それはある意味、自分の発信だからだ。


イトウさんの顔色を伺っている時点で、僕はまだ勘違いをしていた。

僕の企画は、僕だけのものではない。
いい年をして、まるでわかっていなかった。記者生活が長かった自分は、いまだに偏っている。

最後まで、学ばせてもらうことばかりだった。
一緒に働けてよかった。

モニターは、彼女があいさつを終えたリモート会議を映し出している。
自室でひとり、僕は深々と頭を下げた。


2022年1月。僕は久々に取材記事を書いた。
サラエボに同行させてもらった阿部勇樹さんの現役引退までを描いたストーリーだ。

彼のことを書きたい。
そう相談すると、本当にたくさんのかたが賛同してくださった。

阿部ちゃんのためなら。
そう言ってみんながコメントを寄せてくださった。知られざるエピソードもたくさん提供いただいた。

今もレッズや浦和の街にいるひとだけではない。
さまざまな理由でレッズを離れた皆さんも、全面的に協力してくださった。

記事は本当に多くのかたに読んでもらえた。
やはり、企画はかかわるみんなのものだ。もっと言えば、みんなのものだからこそ、スケールは大きくなる。あらためて、そう思う。

イトウさんのことを再び思い返し、僕は自問する。


自分は「自分だからこその役割」を果たせただろうか。
みんなにとっての「特別な機会」を演出することができただろうか。




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