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新たなる「罪と罰の関係性」を描く──漫F画太郎『罪と罰』(原作・ドフトエフスキー)第1話解説

漫☆画太郎『漫古☆知新〜バカでも読める古典文学〜』(集英社)が無事刊行されました。本作の解説を担当するきっかけとなったのは、『罪と罰』(漫F画太郎、原作・ドストエフスキー)でお仕事をご一緒したことでした。2011年10月刊『罪と罰』第1巻(新潮社)収録、「月刊コミックバンチ」2011年4月号に掲載された第1話の解説原稿を、一部修正して転載します。

 誰もが知るロシアの文豪・ドストエフスキーの五大長編小説のひとつ『罪と罰』(一八六六年)は、大学を放逐され未来に希望を見いだせずにいる貧乏青年ラスコーリニコフの、魂の彷徨を、濃厚濃密なモノローグで描き出す。冒頭のシーンは有名だ。彼は敗者意識を、ゆがんだ正義感に置き換えて、がめつい質屋の老婆を殺す。続けて、留守であるはずが偶然その場に居合わせてしまった、老婆の妹までも殺す。

 目撃者がおらず、物的証拠も見つからないため、彼が犯人と名指しされることはなかった。躁鬱気質で、家族や友人知人に「気ちがい」と呼ばれ続けるラスコーリニコフは、真顔で考える。罪を犯しても罰がくだされないことは、「非凡人」であることの特権であり、自らがその人種に属することの証明である。また、一つの罪悪は、百の善行で償われるものである、と。

 しかし、残念ながら、彼は「非凡人」ではない。罪を犯しても罰がくだされないことは、「凡人」である彼にとって——つまり我々にとって——何よりの罰である。恐怖に怯え、罪悪感にさいなまれて、彼の魂は恐慌を来す。そして、法律上の罰を得るという、魂の簡略化のために、彼は罪を告白する。これは、「罪と罰の関係性」についての小説である。

 本号より漫F画太郎が、『罪と罰』を原作とする新連載漫画をスタートさせた。過去に何作も古典的名作を換骨奪胎してきたキャリアを持つ漫画家は、本作においても第一話でいきなり、「罪と罰の関係性」というテーマを破壊する。

 現代日本において今もっとも被害者性と加害者性が混在する固有名詞として知られる、「エビゾー」という名にメタモルフォーゼしたラスコーリニコフは、質屋の老婆に斧をかざし殺意を全面展開するものの、予期せぬ反撃に遭う。他者を殺めようとした彼の「罪」は、その場でたちまちのうちに、「罰」へと転化してしまうのだ。そこで下された「罰」とは、老婆の斧によって、手足を切断されることだ。それだけでは終わらない。彼は第一話のラストで、全裸化した老婆によってレイプを宣言され、思いのほか愛の感触がこもった口唇を押し付けられる。その光景を目にする読者はきっと、こう思うだろう。

「殺人未遂という罪に比して、この罰はあまりにも重すぎないか?(特に後半)」

 漫F画太郎は、「罪と罰の関係性」のテーマを廃棄したわけでは決してなかった。漫画家は本作において、原作では鋭い光を当てられることのなかった新たなる「罪と罰の関係性」を展開している。すなわち——人は罪の重さをどのようにして計るのか。誰もが納得できるような、罪の重さに見合った罰という理念が達成されることはあるのか?

 高度法治社会を生きる我々は今、少なくない倍率で、裁判員制度の裁判員に選任される可能性を秘めている。犯罪の被害者化・加害者化を回避するだけでは免れない、「罪と罰の関係性」の当事者になることを、国家によって強制される社会を生きている。だからこそ。来るべき第二話で描かれるであろう、「罪」たるエビゾー=ラスコーリニコフと「罰」たる老婆のまぐわいが、いかなる批評的達成を獲得するのかを、我々は断固注視する義務がある。

●今月の参考文献●
ドストエフスキー『罪と罰』(工藤精一郎・訳)
原作によれば、ラスコーリニコフは「黒い目がきれいにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年」。老婆は「六十前後のひからびた小さな老婆で、意地悪そうなけわしい小さな目をもち、小さな鼻がするどくとがって」いる。変更点も多いが、人物描写は思いのほか原作に忠実に漫画化されている。なお、新潮文庫版は昨年6月に改版され文字が大きくなった。上巻の帯文が激烈で素晴らしい。「正義の斧、一閃/そして悪夢が始まる」。

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