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人間らしさを理解する

この文章は、文藝春秋とnoteで開催する「#未来のためにできること」の参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

私の小学3年生の時の作文は「人間」というタイトルでした。相田みつをさんのようです。世の中の問題は人間が引き起こしていることがほとんどだから、人間を理解しないとどう解決すればいいかもわからない、という内容でした。おそらくそんなことを書いたのは、広島という土地柄で生まれ育ったことが影響しています。

私は被爆三世です。字で書くと少しインパクトが強いですが、広島にはあちこちにいます。戦争の後、しばらくしてビルマから引き上げてきた祖父と祖母が出会い私の父が生まれます。祖父は広島のテレビ局に勤めていました。広島ではメディアでも学校でもしきりに八月六日の原爆のことが語られます。

祖父が教えてくれたテレビのインタビューで、エノラゲイ号(広島に原爆を落とした飛行機)の操縦士に広島のことを聞いている場面がありました。その時広島に共感を寄せながらも「私は任務に従った。同じ立場なら誰でもそうしただろう」と話していました。その時、子供ながらに自分がしていることと環境が自分にさせていることの境目はどこにあるんだろう、と考えたことを覚えています。いつの間にか私の興味は「人間らしさとは何だろう」になっていきました。

人間らしさは今二つの領域に挟まれています。一つは科学です。人間について理解が進むと、動物と共有している部分が大きいことがわかってきています。論理的に考え自由意志を持った人間像は土台から揺らいでいます。もう一つはAIです。人間にしかできないと思われていたことがAIにできるようになっています。知的であることはもう人間の特権ではなくなるのかもしれません。生物の部分と、自ら生み出したAI。この二つによって「人間らしさ」は狭まっています。

人間は本当に面白い存在です。誰かを傷つけたかと思えば、誰かを助けるために自らを犠牲にします。合理的かと思えば、思いっきり愚かなことをします。一人一人に個性があるかと思えば、集団になると集団に論理に巻き込まれます。

未来を作る時、人間らしさを想定しないやり方はどんなに正しくてもうまくいきません。私はこの多層的でつかみどころのない人間らしさが面白いし、大好きです。どこまで謙虚になろうともやはり人間は、人間としての視点を捨てることはできません。そうであればせめて自分たちを理解し、一筋縄にいかない人間らしさを愛そうではありませんか。

「#sponsored」「#未来のためにできること」

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