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努力は夢中に勝てないのはなぜか

私の座右の銘は「努力は夢中に勝てない」ですが、一体夢中とは何かを少し説明してみたいと思います。

夢中に関しての本ではチクセントミハイの「フロー体験」が有名です。それほど詳しくフロー体験を定義しているわけではありませんが、何かに夢中になっていると人間は多幸感を覚えることが書かれています。

夢中の効能の一つが、それをやることが娯楽化することです。娯楽化するので、やることが辛く無くなる。しかも集中が深い。だから結果が出やすくなります。

一方、結果を出すために夢中になろうとするとうまくいきません。夢中が持つ特徴は無意味性です。「それに意味があるかどうかはもはやどうでもいい」のが夢中です。結果を出すために夢中になろうとすれば、常に将来を意識させます。いまここから離れてしまいます。

夢中になれないと悩む人は、常に何かのために行動するという世界観を生きてきています。何かのために行う行為は努力です。努力と夢中の境目は「将来のために行う行為」か「いまここの行為」の違いです。この境目は微妙です。微妙ですが、この境目が本人の集中に大きな違いを生みます。

努力では集中が弱い。夢中は本当に深く集中に入るので、得られるものも、出せる効果も大きいわけです。

もちろんどの行為も目的を持つことからは逃れられません。その中でもある時間だけそれを忘れて夢中になることできるかが問われています。

夢中とは意識無意識も含めた身体の総動員体制です。人間は無意識の世界の方が大きい。そこも含めてある対象に対し入り込んでいき、対象そのものと一体混然となる。それが夢中です。自分で自分を観察しているとそこまでいけません。常に何かを意識している人が夢中になれないのはそれが理由です。

夢中の練習は、自我を手放す練習でもあります。私であることを捨てて、対象に飛び込んでいく。これができる人は強い。いや、すでに幸せだから強くなくても構わないわけです。

それを手放す時それが手に入っている。努力と夢中を考える時、そのような矛盾を感じます。概ね人生の学びというのは論理的には矛盾していながら、実感としては内包できるものなのかもしれません。

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