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専門家と見えない土台

この10年程度で様々な領域の専門家の方たちの言葉に触れる機会が増え、日本社会全体が学びを得ているように思う。今回もとてもそう思わされた。一方で、専門家が世の中の反論や批判に対応することに疲れてしまうことも多く見受けられるように思う。このようなことはなぜ起こるのか。

一般的に専門家が専門家として認められるまでに、膨大な知識と経験を必要とされる。思考実験で、寒くなったらスイッチが自動で入る暖房と、同じことをする人間は何が違うのかと言われるが、あらゆる選択肢を排除し、最適な行為を行っている背景にある。行った行為は単純でも膨大な可能性の排除がある。

卓越した専門家に対しての評価は、大体それを見る人のステージによって変わる。
1、すごいと思われている人がすごい
2、すごいことができる人がすごい
3、普通のことの洗練具合がすごい
になる。特に2のステージにいる人間が持っている最大の問題点は、自分がすごいかどうかの評価者だという点だ。

語弊を恐れずに言えば、自己評価が高いが、社会からの評価には不満を抱いている人が、専門家に対し議論を仕掛ける場合、知識を満たしたいという欲求ではなく、自己を認めさせたいという欲求が潜む傾向にある。前者の納得は知識で行えるが、後者の納得は感情で行われるので議論では達成できない

一件論破したように見えている状況を外から見ていると、専門家がこの話をするために前提となる知識を数十冊かけて学んでもらわないといけないのだけれどそれはこの人には大変な行為なので、比較的穏やかな終わり方を探っていることがある。しかしこのことに議論をふっかけた側は気がつかない。

世の中の大体の人が自分より優秀ではないように見えているにもかかわらず、自分の人生がさほど成功していない場合、このような誤謬に陥っている可能性がある。つまり、見えていないところにスペシャリストになれる要因がありそれは地道な積み重ねなのだけれど、それが見えず、最後の表面だけを見ている

その人が話している背景に何があるのか。どのような前提知識を持ってここに至っているのかを想像するには、やはり自分の人生でそれなりに何かを深掘りしてみるのがいいと思う。すごい人はいるんだな、そしてすごい人がいつもすごいことをひけらかすとは限らないんだなとわかるだけで大きな学びがある。

土台を積み上げたことがない人は、土台が見えない。

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