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人はなぜスポーツをするのか※2024年春51号


【人はなぜスポーツをするのか】

スポーツをする人口は三〇億人を超えると言われている。人びとはワールドカップや五輪に熱狂し、大谷翔平選手の一〇年間の契約金が一〇〇〇億円を超えた。子供たちがスポーツを行うことも、地球上のあちこちで見られる。

 しかし、元アスリートながら思うのだが、スポーツなんてなくても人は生きていける。適度に運動し、適度に食事すればそれで健康は保たれる。やり過ぎればむしろスポーツは健康を害する。娯楽は他にもある。それでも、なぜかスポーツは求められている。

 スポーツはなぜ生まれ、これほど行われるようになったのだろうか。

【スポーツの起源と定義】

 スポーツの起源は随分古いと言われている。スポーツの語源はラテン語のdeportareで、de(=away)portare(=carry)からもわかるように、日常の義務から離れ憂さを晴らす行為を意味しているようだ(佐野慎輔「スポーツとは何か」笹川スポーツ財団ウェブサイト)。遊戯の意味合いが強く、現在のようなルールがしっかりとしたものではなかった。ピクニック的なものもあったのではないだろうか。

 その後、フランスからイギリスに渡り一四世紀頃にdesportと呼ばれるようになり、現在の形に近くなっていく。サッカーやラグビーのようなチーム対戦型の形や、競技性の高い形が出てきたのもこの頃だ。

 今日、スポーツという言葉を聞かない日はないが、しかしスポーツそのものはどこまでを指すのかという定義はしっかりとしたものがない。競技場で行うようなサッカー、ラグビーもスポーツだし、屋外で行うサーフィン、山登りもスポーツだ。

 私は「身体と環境の間で遊ぶこと」をスポーツの定義としている。遊戯性はスポーツの重要な要素である。

【自我の誕生】

 スポーツがなぜ求められたのかを考察するために、人間の自我がどのように誕生してきたのかを少し振り返ってみたい。

 ジュリアン・ジェインズは著書『神々の沈黙』(紀伊國屋書店)で、叙事詩イーリアスを引用しながら、紀元前一〇世紀頃までは人間の意識は今とは全く違うものだったと説明している。イーリアスの中で人間は、神が命令し、それに従って動く存在だった。

 ジェインズはそれを「二分心」と呼び、心は命令する部分(神の言葉)と、命令されて従う部分(人間)に分かれていたと主張している。現在の我々が「自我」と呼ぶ、自分で考え自分で意思を持つ部分は神の言葉だった。二分心まではわからないが、「自我」と呼ばれるものはそれほど古いものではないという立場を私もとっている。

 その後、次第に身体を自分が制御するという考えが生まれていき、ソクラテスなど西洋哲学者によって意識し考える人間観が確定していく。私という主体があり、その主体が考え、身体を動かしている。デカルトは「我思う故に我あり」と語り、考え思う自分こそが人間であると考えられるようになった。

 しかし、意識し考える人間は同時に苦しみも生み出した。考える自分は、なぜなのかと問いかけ始める。なぜ人は死ぬのか。なぜ人は苦しむのか。神が担っていた行動の理由を、人間が引き受けてしまったのだ。

 ブッダはこの苦しみを取り除くことに生涯を捧げた。ブッダは長い修行の末、人間の苦しみの原因は戯(け)論(ろん)にあると直観した。戯論とは、識別し、想像を膨らませる作用のことだ。

 世の中はただただそこに存在している。人間がいなくてもそこにある。その現実を見て苦しい、悲しいと感じるのは、自我があり心があるからだ。一体これはなんなのかと識別し、これは良いことなのかと判断する心が苦しみを生み出している。戯論が苦しみを生み出していることに気がつき、修行で苦しみを止める方法を探し続けた結果、ブッダは瞑想に辿り着く。人はなぜか何かに注意を向け続けると戯論が起きなくなり、苦しみが止まるのだ。

【スポーツのリアルタイム性と意識の乖離】

 人類史とともにスポーツがあったのは、自我の誕生と無関係ではないと私は考えている。非日常の没頭空間を作ることで、苦しみから解放され憂さを晴らすためにスポーツが行われるようになったのではないか。

 スポーツが持っている一つの特徴はリアルタイム性である。今ここで起きていることに反応し続ける機会がとても多い。陸上選手はピストルの発射音が鳴ってから〇・二秒以下で反応している。野球選手がバットを振るのは、ボールを見て考えてからでは間に合わない。

 このような「早い判断を迫られる世界」では、考えている暇がない。ダニエル・カーネマンは著書『ファスト&スロー』(早川書房)の中で、人間は二つの思考を使い分けていると説明している。システム1は反射的で深く考えず早く動く、システム2はよく考えゆっくりと動く。システム2には内省も含まれており、自分自身が間違えていないか省みることもできる。それはミスを減らしてくれるが、同時に雑念も引き起こしやすい思考だと言える。

 スポーツはゆっくり考えている暇がないので、基本的にシステム1を使う。スポーツは「意識的に考えている暇がない」のだ。知覚したものが神経に伝達され、そのまま動いている。

 例えば、テニスのボールをうまく打ち返している時に、自分の手元を意識した瞬間に急にうまくいかなくなることがある。意識して考えてしまい、動きが混乱したのだ。

 人間の動作の大部分は無意識で制御されている。考え事をしながら歩けるなら、誰が自分の足を運び、地面の硬さを知覚し、それによって体勢を維持しているのか。思考も含めこの無意識の世界の広大さに比べれば、意識的に「我思う」範囲は狭い。自分が意識すらしないところで、身体は動き自律的に制御している。スポーツをする時、意識的な自分が「いまここ」に注意を向けることで、無意識の世界が大きく躍動する。

 自動運転で走っている車に乗っていながら、その様子を観察しているドライバーのような感覚だ。ぼんやりとした、大まかな行きたい方向はあるのでそちらの方向を向いてはいるのだが、手元の運転は機械が自動的に行っている。

【スポーツが社会に求められた理由】

 全体を整理してみたい。人間の自我は元々はっきりとしたものではなく、人類史の途中で誕生した。自我を持つことで、識別し、判断し、想像が膨らむようになった(戯論)。戯論によって人びとは苦しみを抱えるようになり、何かに注意を向ける瞑想で苦しみが和らげられることにブッダが気がついた。

 スポーツは誰でも気軽に始められ、他者とコミュニケーションを取ることができ、適度に夢中になりやすい要素があるので、日常から離れた「憂さ晴らし」として定着していったのではないか。

 以上が私の考えるスポーツが社会に求められた理由だ。私は「自我を持つ人間」というモデルが本質的に苦しいのではないかと考えている。自分とは何者かと問いかける自分、行動に責任を持つ自分、他者に配慮し続ける自分。それを悟りで克服できればいいが、そんなことは天才ブッダではない多くの普通の人びとには難しい。その苦しい人間であることから離れ、少し野蛮だったとしても一定のルールの中で自我が生まれる前の時代に一瞬でも戻り、手軽に没頭する。そのように人間を続けるための「憂さ晴らし」をしているとは考えられないだろうか。

【注意の集約=ゾーン経験】

 アスリートやパフォーマーが「いまここ」に注意を向け続けた世界の先に「ゾーン」と呼ばれる世界がある。このゾーン体験でアスリートの多くが「時間感覚の変容」と「身体からの意識の乖離」を経験する。具体的には「球が止まって見えた」や「自分を外から見ていた」などだ。興味深いことに瞑想体験でも似た報告がなされている。

 私がなぜスポーツは苦しみを和らげるという着想に至ったのかと言えば、自分自身のゾーン体験があるからだ。

 私のゾーン経験は二〇〇一年の世界陸上だった。スタートの準備をして、いつものようにある一点を見ながらピストルの音を待ちながら集中していたら、いつの間にか走り出していた。私が私をコントロールしているという感覚がなくなり、身体が勝手に動いていくのを私が眺めているようだった。私とハードルがただ合っていく感覚がとても心地よかったのを覚えている。気がついたら最後の直線を走っていて、三番目でゴールしていた。

 あの体験から、人間のパフォーマンスが最も解放されるのは自我を手放した時だという確信を抱くようになった。そしてその体験はとても幸福なものだった。

 自我という中心を生み出し、自然界を私たちは操作してきた。それが科学を生み出し、思想を生み出してきた。近代人である私たちが、自我を完全に放棄することは難しいだろう。だが、何かに夢中になって遊ぶ時、仮に一瞬であっても世界と自分の境目が曖昧になり、「我を忘れる」ことができる。その一瞬の開放感、生の実感こそが、スポーツの存在意義なのだ。


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