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防衛としての教養

人前で話すことが多くなると、教養は防衛のために必要だという考えを持つようになる。教養という言葉の捉え方は人によって幅があるけれども私は「時間軸空間軸を超えたバランス感覚の基礎となるもの」と捉えている。教養がなければ、何がどこに位置しているかがわからない。

サンディエゴで暮らしていると、周囲では養子縁組が盛んで、離婚も珍しくなかった。だから日本ではよく聞く子連れの家族に”お父さん似かな、お母さん似かな”ということは誰も言わなかった。

例えば歴史を知っていることで、2カ国間で何が微妙な話題かを知ることができる。知っていて踏み込むか、踏み込まないかは自分の判断だが、少なくともその一線が見えていなければ身を危うくする。デジタル領域の知見がなければ、自動化されていることを手動で頑張り著しく時間と労力を浪費する羽目になる。

教養がなければ、何が危ないことで、何が危なくないことかがわからない。わからなければ、無謀に突っ込むか、過剰に恐れるかしかない。過剰に恐れる方が多いが、過剰に恐れれば地雷を大幅に避けるので狭い範囲でしか生きていけない。そして徐々に生きられる範囲が狭くなる。

ある年齢を超えてもなお活躍する人たちを見ると、皆教養がある。教養がない人はそれまでに力を得られず撤退しているか、または重鎮ではあるものの常に変わりゆく社会の共感を得られず緩やかに衰退していく。価値観が変わっていければ一番いいが、価値観を変えられないにしても教養に支えられたバランス感覚があれば少なくとも自分の発言がどう受け取られるか、自分の振る舞いがどう評価されるか、は判断できる。

教養がある人は外から自分を見ている。教養なき人は自分から外を見ている。

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