短編BL_003「教科書の隅っこ」

 「好きな人を絵に描きましょう!」
 幼稚園で先生にそう言われたとき、同じヒマワリ組だった山岡 肇(やまおか はじめ)の絵を描いた。すると途中で先生が「これ……山岡くん? すご~い! 上手に描けてるよ。大事な友だちなんだね」と聞かれたので、「ううん。ぼくのこいびとだよ」と正直に答えた。すると先生は言った。
 「あはは、恋人はおかしいよ。だって岡崎くんも男の子なんだから」
 岡崎陽介(おかざき ようすけ)は、それから絵を描くのをやめた。彼は絵が好きだった。好きなものを好きなように描けるから。けれど、あの日から怖くなった。今でも怖いままだ。高校の教科書の隅っこにペンが行くたび、はっとして引っ込めてしまう。「自意識過剰だ」「子どもの頃の話だ」「もう吹っ切れよ」「このままじゃ生きづらいぞ」そう思う自分がいる。しかし教科書の余白に迷い込もうとしたシャーペンは、すぐに線の引かれた大学ノートへ戻ってきてしまう。
 けれど、数学の授業は退屈だった。ついつい落書きしたくなるくらい、授業がつまらない。本格的に私立文系に切り替えようか。ワケが分からないし、こんな数式の何が人生に役立つのか? ……こんなふうにも思ってしまうから、本当に向いていないのだろう。この数学っていうのは――。
 「嘘はいかんぞ、嘘は」
 胸が鳴った。なんで急にそんなことを言うんだ。
 顔を上げる。声の主は先生だった。数学教師の幸田 真(こうだ まこと)は黒板を指しながら続けた。
 「いいか。数学の問題を解いてると、途中で『あれ、変だな?』と思うときがあるだろ? そういうときは時間をちゃんと取るんだ。そして『変だな』と思う箇所を納得できるまで見返せ。『気のせいかな?』って自分に嘘をつくと、だいたい最後は間違う。それに正解しても、じゃあ何で『あれ、変だな?』って思ったんだって疑問は残るだろ。それが次の間違いに繋がるかもしれない」
 そういって、またよく分からない数式を書き始めた。授業を聞いていなかったから、どういう流れで言ったのか分からない。しかし陽介は思った。
 「そうかもな」
 肩の力が抜けた。元から何を言ってるか分からない授業だったが、さらに何を言ってるか分からなくなった。いや、むしろ聞いている場合じゃない。授業よりも大事なことができたのだ。
 陽介のシャーペンは教科書の隅へ向かう。あのとき先生に笑われて、山岡本人にも「なにそれ、変なの」と言われて、それで「うそうそ~」と誤魔化して、画用紙ごとクシャクシャにした絵を描こう。たしか山岡は、こんな感じの顔だった。こんなふうに笑って、こんなところが好きだった。
 シャーペンが踊る。絵が出来上がっていく。そして教科書の余白が埋まると、陽介は天井を眺めて深く息を吐いた。
 「コラ、岡崎。まだ授業中だぞ。何を勝手に一息ついとるか」
 幸田がいった。
 「すみません。でも、ありがとうございました」
 思ったことをそのまま答えた。幸田も同級生たちも「こいつ、何をいってんだ?」という目で岡崎を見た。
 けれど気にはならなかった。陽介はもう嘘をついていないからだ。
 教科書の余白で、ペンが踊り続ける。
 ところで、この山岡の絵を完成させたら、次は何を描こう? 
 いや、なんでもいいんだ。描くものは決まっている。それは何かは分からないが、僕が好きなものだ。好きなものを思いつくまま、嘘をつかずに描けばいい。後悔は、もうしたくない。

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