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勝ち組と負け組ってなんですか?

「30歳になると、一度同窓会に参加してみるといい。勝ち組と負け組が明確に分かれてきていて面白いから。」

いつだったか、ある大人にこのようなことを言われたことがある。しかし、僕はこの言葉が府に落ちなかった。むしろ、反発すら覚えた。そもそも、その人が言う勝ちとか負けは人生においての勝ち負けだと思うが、人生においての勝ち負けは何で決まるのか不明確だ。

例えば、新興国のような世界であれば「お金」という基準において勝ちとか、負けとかはっきりするだろう。しかも、新興国ですら「お金」という基準が勝ち負けの基準でないのかもしれない。

ましてや、今日の日本のような経済的繁栄を遂げた国では必ずしも、「お金」というものが勝ち負けの基準ではなくなってきているのであろうか。身体が壊れるほど働いて、莫大な収入を得る人が勝ち組に分類され、フリーターだけど年間4000円で映画や動画バラエティを楽しむ人が負け組に分類されるのか。毎日、豪華な料理や酒を嗜み、スーパーの総菜や他人の手料理に満足しなくなった人が勝ち組で、たまの自分へのご褒美のデリバリーピザを丁寧に美味しく食べる人が負け組なのか。これは、誰が何を基準に用いるかによって答えは変わってくるのだろう。その基準は今のところ、統一されていないし、画一的ではない。

そうしたときに、明確に誰が勝ちで誰が負けなどと判断したり、言ったりすることはできるだろうか。きっとできないだろう。

勝ち組と負け組が画一的な判断基準を持たないとなると、その勝ち組や負け組を決めるのは誰なのだろうか。それは、「自分」ではないか。自分がどの判断基準を用いるかによってのみこの勝ち組、負け組という分類はなされるのではないか。

僕に、同窓会で勝ち負けがわかるといった大人は自分の勝ち負けの判断基準を明示してない上、勝ち組や負け組といった価値相対的なものを他人にあたかも絶対的なものであるかのように語ったことで僕に違和感を生じさせたのだろう。

もちろん、各々の判断基準として、内なるものとして、「勝ち」「負け」は存在するだろう。しかし、それは画一的でないし、他人に発信したところでどうなるわけでもないだろう。

結局のところ、勝ち組や負け組の分類に縛られたところで別にどうなるわけでもないのだ。だって、自分は解釈次第で「勝ち組」にも「負け組」にもなりうるのだから。それをして安心しているのは自分の判断基準が世の中の絶対的な判断基準であると思っていて、なおかつ自分がその判断によって勝ち組に分類されると考えている人なのだろう。

「30歳になると、一度同窓会に参加してみるといい。勝ち組と負け組が明確に分かれてきていて面白いから。」

「だからどうした?、あなたの主観だろ?、わかったところでどうなるの?、あなたの勝ち負けの基準なんてなんの影響力ももたないから安心して。」今はこの思いを二枚くらいに重ねたオブラートに包んで、その大人に届けたいと感じる。負け組の遠吠えである。

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