三十路、男一匹

なんやかんやでいろいろあった。いろいろあった数年だった。二十代の終わり頃に精神がおかしくなって帰郷した。俺の人生は終わったんだと絶望しながら実家のベッドの上で動けずに泣いていた時期を経て、今は再上京し、フルタイムの仕事が決まった。
前に『うわ言病棟』というエントリを書いた。今回の文はその続きというか、過去を振り返りながら俺の感じたことを書き綴り、記録として残しておきたい気持ちがまずある。その時その時に考えた方や気持ちは変わっていくし、現時点での俺の思いを俺が感じられればいいなと考えている。人生の中でも割と辛い時期であったことは間違いない。もしこれを読んでくれた方が「そういう考え方もありかな」と思っていただければ幸いだ。もちろん、俺が思ったことを勝手に書くのだから、読んでくれた方がどう思うかまでは俺の知るところではないし、ただの願望ではあるのだけれど。

俺の精神疾患には完治がなく、あくまで寛解だと説明されている。だから再度悪くなることもあるし、ならないかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいい。純然たる事実として、俺が現在生きていて、目的も目標も夢も願望も希望も野心も持ち合わせていること、これが何より重要なことだ。
これらは寝込んでいたときには全く無かった考えで、いつどうやって死ぬか、死ねるかしか考えていなかった。明日のことも考えられず、数時間先、いや、いま何をしたらいいのかも思い浮かべることができなかった。

じゃあよくなって前向きになったのかといえば、ちょっと違う気がする。結果として俺は死ななかった。死ねなかった。実際のところ、怖かったのだ。希死念慮というか「俺のようなものが生きていてはいけない」という思いが強かった。俺が死ねばみんな清々するだろうと思って、ただ逃げて消えたかっただけなのだ。いろいろあり、いろいろやって、死にたい気持ちの山を乗り越えて、とりあえず俺は生きている。

「死にたい」と「生きていてはいけない」には大きな隔たりがある。「死にたいってことは、本当は生きたいってことだよ」というような話を聞いたことがないだろうか。俺はこれには非常に同意で、死にたいと思っているうちはまだ大丈夫。いや、全然大丈夫ではないし、周囲が注視すべきではあるのだけど、問題は自分のことを「生きていてはといけない」と思ったときだ。これはもうカウントダウンがかなり0に近くなっているときだと思う。自殺というのは自発的なものだ。自発的に動く発想があるとき、まだギリギリで死なない。もちろんこの段階で自殺をしてしまう人もいる。悲しいが、いる。だから身近にそういう人がいたら、気にして欲しい。
では「生きていてはいけない」はどうなのか。これはもう完全に自己否定に入ってしまい、何もできない。何もできなくなってしまったとき、人は死ぬ。最後の力で。自分が消えることで誰かが清々すると考える。罪の意識すらあり、人のためという意味不明な大義名分で命を断つ。俺はほとんどそうだったように思う。前回も書いたことだが、死ぬ気になれば何でもできるというのは嘘だ。死ぬ気になってもできるのなんて死ぬことだけだ。何にもできないから死ぬのだ。
もしも辛い人がこれを読んでいたら聞いてほしい。お前は誰からも愛されていないかもしれない。自分のことを愛することもできないかもしれない。生きるのは辛いことかもしれない。だけど、どうせみんな死ぬのだ。もう少し迷ってみてはどうだろうか。何があるかなんてわからない。チープな言葉だが、これ以上の言葉を俺は持たない。

思ったより先は長い。人生はあっという間だと先達はよく言う。だが、その方々よりも若輩な我々が思っているよりはずっと長い。どん底のまま生きてみて、それでも日々を重ねる。もしかしたら、浮かぶ瀬もあるかもしれない。無いかもしれない。そんなことはわからない。なぜなら明日を保証された人間などこの世に一人もいない。
これ以下は無いと思ったところからまだまだ沈むこともある。最悪の底にはもっともっと下がある。誰かと比較してではなく、自分の中にそれはある。何かをしない限り、ズブズブと底なし沼のように沈んでいく。

人生が辛いとき『明けない夜はない』だとか『降り止まない雨はない』と言われたりした。いや、違うのだ。明けない夜はあるし、降り止まない雨もある。何もしなければずっとそのままの日々が続いていくだけだ。これは断言できる。お前が自室で当てもない何かを待っているのだとしたら、それは全くの無為だと言える。元気が出ないなら、もうしばらくそうしていろ。体と心を休めるべきだ。休むことは無為ではない。でも、もしもほんの少しでも散歩がしたければ散歩をしろ。腹いっぱい食いたかったら飯を食え。起き上がれない時期はあるだろう。腹が減っているのに食えないことだってあるだろう。その時はじっと休んでいればいい。
ただこれだけはわかってくれ。じっとしているだけではそのままなんだ。
お前の世界の明けない夜に朝を迎えさせるのも、止まない雨を止めるのも、お前の世界の神であるお前なんだよ。
だが焦る必要はない。人生は思ったより長い。高く飛ぶためには深く屈まなければならない。焦るな。

どれほど偉かろうと、どれほど貧しかろうと、明日の保証どころか五分先に生きているかなんてわからない。その逆も然りだ。本当に何が起こるかなんてわからない。だから生きてみろというつもりはない。とりあえず迷ってみて欲しい。その間はきっと生きていられるだろう。まずは飯を食い、よく寝ることだ。できないなら病院を訪ね、薬を飲もう。厳しい世間ではあるけれど、まずお前が望むことから全ては始まるのだ。黙っていて差し伸べてくれる手は無い。辛いときは専門医に助けを求めるんだ。風邪をひけば内科に行くし、怪我をすれば外科に行く。だったら、精神のための病院にだって行って当然だ。

上京してしばらくは在宅で過去のつてから仕事をもらい、なんとなく生きてきた。上京の資金を貯めるために朝昼と、夜も働いていて疲れが出たからやる気が出ないのかなと思ったりもした。就職のために何通もエントリーシートを送り、そのたびに失敗した。経験があればわかると思うが、これは「あなたは不必要です」と世間に言われているようで、なかなかしんどい。毎回心が沈む。今になって考えてみると、俺に足りなかったものはスキルや職歴よりも自信だったように感じる。自信のなさは履歴書や職務経歴書に出るし、面接の態度にも出る。戦う前から負けていた。どこかで勝てるはずがないと思っていた。いつかのタイミングでハードルを下げ、バイトを掛け持ちすることにした。
どのタイミングだったろう、と思い返す。このまま惨めに老いていく自分をリアルに想像したときだったと思う。
死ぬときも部屋で一人、貧しく、惨めに!

怖かったのだ。耐えられないほどに怖かった。正社員からアルバイトをとりあえずの目標に切り替え、自分の後退のネジを外してエントリーシートを大量に送り、面接に行った。
この頃に思ったことだが、例えば「憂鬱だな、動きたくないな、体がだるいな」という不調を病気と結びつけすぎるのはいけない。そういった不調は病気のサインである可能性も大いにあるので、毎回、何もかもを無視してしまうのは絶対にやめたほうがいい。だがそれも程度問題だ。普通に生きていればダルいときだってある。落ち込んで憂鬱になるときもある。精神を病んでいない人だって日常に起こる。自分の悪い部分を全て精神疾患とリンクさせすぎるのはやめよう。ここまで気をつけて書いては来たが、俺の言うことは所詮結果論だ。俺よりも主治医の話を必ず優先させて欲しい。

幸いなことに二件のバイトに受かり、週六くらいで働いた。そのうち一つはあまりにも人と合わなかったため、三ヶ月足らずで辞めてしまったが、後悔は全く無い。というのも、あまりに嫌すぎて出勤のたびに胃が痛くて座っているのも辛くなってしまったからだ。

逃げの一手を打つことを俺は恥ずかしいと思わない。「ここで引いてどうする」と思うことはあるが、張る必要のない意地なら張らなくていいのだ。精神を病んだことも含め、俺だってもういい年になった。自分の押すべきところと引くべきところくらい何となくはわかる。
古代ギリシアのデモステネスの言葉にこんなものがある。

逃げたものはもう一度戦える

戦うためになら、何度逃げたっていいのだ。何度も挑めばいい。ぶち当たって、もがいて、それでもダメなら逃げろ。
ただし、こんな言葉もある。スペインの小説家、ミゲル・デ・セルバンテスの言葉だ。

富を失う者は多くを失い、友人を失う者はさらに多くを失う。
しかし、勇気を失う者はすべてを失うことになる

元イギリス首相のウィンストン・チャーチルも同じことを言っていた。
逃げてもいい、しかし逃げた結果に失うものは多々ある。ただ、諦めず勇気さえ持っていれば、また何かを手に入れることができるだろう。勇気さえ失わなければ何度でも戦えるのだ。
お前が、お前を諦めてしまわない限りは。

もう二つ、あわせて名言を引用しよう。フリードリヒ・ニーチェの言葉だ。

君の魂の中にある英雄を放棄してならない

人の心にある英雄像はそれぞれ違うと思う。しかし、何をもって英雄と呼ぶのだろう。俺は諦めないことであり、何度も立ち上がることだと思うのだ。自分が望む人生を望むまま生きられる人は少ない。それでもなお、前を向く。だからこそ英雄と呼ばれるのだろう。
ナポレオン・ボナパルトがこんな言葉を残している

真の英雄とは、人生の不幸を乗り越えていく者のことである

お前の魂の中にいる英雄は、お前の人生の不幸を越えさせるものだ。下を向くな。上を見ろとは言わない。だが下を見るのはよせ。

後悔なんて山ほどある。明るい未来より暗い未来のほうが鮮明に思い浮かぶ。だけど俺たちは配られた手札で勝負するしかないし、その中で最善の手を考えていくしかないのだ。一生、ずっと。
生きていれば、その手から砂のように抜けて行ってしまったものもたくさんあるだろう。では今、何が残っているのだ。常に、常に今の自分の手の内だけを見ろ。今無いのであれば、もともと持っていなかったものと変わりない。落ち込む必要はない。だがあるはずだ。今はなくても、なくなったものが俺やお前にもたらしてくれた何かが。それを思い出にするか、また諦めきれずに何度も足掻くか。選択は常に自由だ。

選択という言葉についてだが、人生には岐路がある。とりわけ大きなものを人は意識する。だが俺が思うに、岐路は毎日、それも一日何度もある。瞬間瞬間に選択する場面を生きている。朝食を食べるか食べないか、また食べるならご飯にするかパンにするか。友達と遊ぶか遊ばないか、遊ぶならどんなことをするか。遊ばないなら一人で何をするか。全部、岐路だ。このいくつもの小さい分かれ道を自分の選択で進み、やがて大きな岐路にたどり着く。人生は選択の連続で、日常の積み重ねだ。今日この時、この瞬間だって人生であり、常に岐路に立っている。
自己実現を面接で聞かれたり、メディアで特集されたりすることがある。自己実現などはこの選択の繰り返しでしか成し得ることはできないだろう。(だから面接で話すのは少々ナンセンスだとも思う)

俺が動けなかったとき、ずっと悩んだことに人生の生きる意味がある。今だから言おう。そんなものは無い。いや、少し語弊があるので順を追って説明しよう。
まず生きる意味はない。あるとするならば、成長して次世代に繋がる子孫を残すことくらいだ。これは生物としての生きる意味だと思う。これを否定するわけではない。だが、発達した現代社会で、子供を作ってあとは死ぬだけというのは、あまりにも時代にそぐわない。
俺は生物の話をしているのではない。人間の話をしているのだ。
生物から人間の話に切り替えたところで、人生を生きる意味という空欄が出現する。悩むべきことだ。しかし、難しい話ではない。
勝手にすべきなのだ。俺が思う俺の生きる意味もお前が思う生きる意味も違う。自分で決めて、それぞれが勝手に追求すべきだ。倫理観や社会性、国々の法から著しく外れていないなら、この設定は自由だ。あとは各々が頑張ったり、失敗したり、落ち込んだり、後悔したり、成功したりすればいい。
『生きる意味とは、かくあるべき』という概念などは多数ある。またそれを言い表した言葉もある。あるが、俺の人生は俺のもので、お前の人生はお前のものだ。好きにしたらいい。

ここまで書いていたらとりとめがなくなってひたすら長文になりそうなので、最後にもう一つだけ言葉を引用して締めに入ろう。
これはドリー・パートンの言葉だ。

あなたの人生を代わりに生きてくれる人はいない

俺がどんなに辛くても、お前がどんなに辛くても、代わりに人生を戦ってくれる者などいない。誰かがどれほどの幸福を持っていたとしても、その人と人生を入れ替わることなどできないのだ。

ここまでいくつかの言葉を引用してきたが、彼らについて俺は詳しく知らない。あくまでも言葉が持つ、それ自体から感じたことを優先して引用した。俺はそれでいいと思う。言葉は大切だ。だが、言葉に使われて思い悩むことはするな。感じたまま、自分の好きに解釈をすればいい。試験があるわけじゃないのだ。

日本は誠実、実直が評価される国だと思っている。しかし俺は『勇気』こそを称賛したい。何度も失敗し、何度も這いつくばって、怖くても、それでも立ち上がる勇気を、俺は称賛したい。勇気を持つのは難しいことだ。だが、だからこそ勇気は言葉や行為以上に自分を後押しし、他人にすら影響を及ぼすものだと思う。
小さくてもいい。心の中にある勇気を忘れずに、少しずつ生きていこう。
焦らなくてもいい。きっと先はまだまだ長いのだから。

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