真夏のスノーマン

僕が小学生の頃、三月の終わりに雪が降った。毎年、春の間際に降る名残雪が冬の最後の悪あがきのようで、大人はみんな困っていた。名残雪は決まって大雪で、大人たちは片付けた除雪道具を引っ張り出したり、タイヤにチェーンを巻いたりしていた。大人にとっては大変なことでも、子供の僕らにとっては嬉しいことだった。年の瀬が迫り、初雪を見たときは何故か嬉しくなった。毎年のことなのに、街が、田畑が、川辺が、世界が白く染まっていく風景は、いつか見た夢の景色のようで美しくもあり、どこか儚げにも見えた。きっと、まだ何処へ行く力も、自分の周囲を変える力も持ってなかった子供の僕は、黙っていても享受することのできる非日常の世界が嬉しかったのだろう。名残雪も同じくらい嬉しかった。三月に入れば太陽が顔を出す時間が増え、暖かい日も増える。雪の存在を忘れかけた頃なのだと思う。不意に思い出させてくれる名残雪は、「来年もまた会おう」と言ってくれる、冬にだけ会える友達のような気がした。

その年の名残雪は、特によく降った。毎年の雪よりも、さらに倍以上の積雪だった。大人たちはいつもより慌てていたが、しんしんと降り積もる雪になすすべはなく、しばらく除雪をしたものの、ほとんどが諦めて家に戻っていた。小学生の僕は春休みの真っ只中で、窓から見える大雪をじっと眺めていた。親からは家を出ないように言われていたけれど、見ていると吸い込まれそうになるほどの雪に興奮して、分厚いコートに分厚い手袋、そして毛糸の帽子を被って玄関を飛び出した。

空は何層にも折り重なった雲が太陽を遮り、世界が昼を拒むような黒さだった。だけど暗くはなく、降る雪が僅かな光を乱反射させ、積もった雪が地面からまた光を放ち、まるで空と大地が逆さまになったように思えた。
普段と違う景色に興奮し、僕は一人で海に向かった。海は家からすぐそこ、子供の足で歩いても十分はかからない。墨汁のような海は、うねって防波堤に何度も衝突を繰り返し、そのたびに白い泡を吐いていた。遠足で行った美術館にあった水墨画が動いているみたいだった。海からは灯台の光を歪ませるほどの湯気が上がり、真っ黒な海の上はぼんやりと光っていた。波打ち際が、この世とあの世の境目に見えた。

僕は海から十分に距離を取った砂浜に、大きな大きな雪だるまを作った。夢中になって作ったから、あっという間に出来上がった気でいたけれど、辺りが本当に暗くなっていたので、かなり時間は経っていたのだろう。手頃な石で雪だるまに目を付け、漂着した海藻でにっこりと笑った口を作った。帽子を被せたかったけれど、近くには何も落ちていなかったので自分のしていた毛糸の帽子を被せた。厳しさの中にも不思議に美しさが感じられる風景の中に溶け込んだ雪だるまを眺め、僕はとても満足して家に帰った。

翌日から三日間は、春どころか初夏を感じさせる程に気温が上がった。春休みの宿題に追われて家にこもっていたが、窓を開けると新鮮に感じる風が入ってきたことを覚えている。僕はふと、海の雪だるまが気になった。昼ごはんを食べた後に海に行った。もう薄手のジャンパーで十分な暖かさだった。

海は普段どおり青く、また空も晴れ渡って、先日の不思議な景色は跡形もなかった。積もった雪はなくなっていたが、僕が作った雪だるまの残骸が残っていた。作ったときの半分くらいの大きさに溶けていて、石で作った目は片方が取れてしまい、にっこりと笑っていた口も苦悶に歪んだようにへの字になっていた。つらそうな雪だるまを見て、僕はなんだか取り返しのつかないことをしてしまった気になり、逃げるように走って家に帰った。

その夜、あまりの罪悪感からか夢を見た。僕は昼間の海に立っていて、空は晴れ渡っているのにも関わらず、海は大雪の夜に見た水墨画になっていて、波打ち際まで黒い。雪だるまが僕に話しかける。ゆっくりとした口調で。

「どうして僕を作ったのさ。わかっていただろう、こうなることくらい。たった三日で死んでしまうのに、どうして僕を作ったのさ」

そう言い残すと、口調よりもゆっくりと動きはじめ、この世とあの世の境目の波打ち際まで体を引きずっていった。
汗だくで飛び起きたときは夜中の三時だった。喉がカラカラに乾いていたけど、怖くて起き上がることができなかった。

溶けてしまった雪だるまをどうすることもできない。かと言って忘れることもできないまま、僕は新しい学年になり、時々同じ夢にうなされながら中学生になった。

中学校は他の小学校からも生徒が集まり、これまで会ったことのない人たちと話し、部活動に励むのが楽しかった。春が過ぎ、夏休みのある日、女の子と遊ぶ約束をした。別の小学校から来たその女の子は、可愛らしくおとなしかった。同じクラスで席も近かった彼女とよく話すようになり、僕の家が海の近くであることを知った彼女が、僕の家の近くの海に行ってみたいと言った。僕は海に行くと、また雪だるまのことを思い出してしまうのが怖くて、内心で尻込みしたのだが、彼女の気持ちを無下にしたくなかった。勇気を出して一緒に行くことにした。

暑い日だった。僕はTシャツにハーフパンツ姿、彼女は涼しそうな薄い青のワンピースを着ていた。浜辺を歩くと汗が吹き出して、嫌な気持ちまで流れていってしまうように感じた。彼女が持ってきていた小さなレジャーシートを広げて、二人で海を眺めていた。何気なく小学生の頃の雪だるまの話をすると、彼女は小さな声で「私もその景色を見てみたい」と言った。僕は「今年の冬、雪が降ったらね」と答えた。彼女と雪の海に行けば、雪だるまと会えるような気がした。だって、また僕が作ればいいのだから。

その夜、僕は夢を見た。昼間の浜辺でレジャーシートに座っている。でも、隣りにいるのは女の子ではなく、あの雪だるまだった。あの時の夢と同じように、ゆっくりと僕に話しかける。

「君は優しいね。前に君の夢で話しかけた僕は、僕じゃないよ。気に病んだ君が作り上げた、幻だよ。僕は少しも君のことを恨んじゃいないぜ。だって、僕には命がない。生きたり死んだりはしないんだ。ただね、君が悪い夢を見ているのは可哀想に思う。いいんだよ、僕は何も望んじゃいない。君が時々思い出してくれれば、それだけで作ってもらった甲斐があるよ。できることなら今年も、来年も、大人になってもさ、僕のこと思い出してよ。どうせなら僕を作った、あの美しい景色と一緒にね。そうだ、今年はあの女の子と僕を作ってよ。そしたらきっと、ずっと忘れないよ」

雪だるまは動き出し、波打ち際に向かっていった。

「そうだ。帽子、ありがとね。嬉しかった」

そう言って振り返った雪だるまは、あの日作った表情よりもにっこりとした笑顔だった。

その年の冬に女の子と作った大きな帽子を被った雪だるまは、なんだか今にも話し出しそうな気がした。

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