永遠のさよならのかわりに

秋口、朝まで酒を飲んだときのことだ。その日はよくお世話になっているバーのマスターと飲んでいた先で会い、そのままご一緒した形だったと思う。Hさんとしよう。
空が白み始め、というよりもう普通に朝だ。我々が歩いているガード沿いには電車の走る音が響き渡り、出勤するスーツ姿の人々は眩しい朝日に目を細めている。行く当てもなく彷徨っていたが、とりあえず人混みを避けるため、路地裏に入る。

「みつるさん、どうします?」

Hさんは俺に尋ねるが、これは「どこかの店に入りますか?それとも帰りますか?」の質問ではない。「まだ行けるっしょ?」という言葉を、例えるならオブラート三枚で包んだあとに撥水スプレーを掛けるとこのような表現になる。
そしてこの時間の酔いが回った俺に複数の選択肢は存在しない。

「この時間にやってる店ありますかね?」

俺がこう答えることなど、Hさんは先刻御承知で、むしろ俺にとっての助け舟のようなものなのだ。

二人でそんな言葉による擬似プロレスを楽しんでいるとき、俺はふと一軒の定食屋を思い出した。それは知る人ぞ知る、というか割と有名なこの辺りの激シブスポットで、営業開始が朝の6時、そして夕方には終わってしまう。噂によると、深夜営業を終えたタクシーの運転手や飲み明かした酔っぱらい、近所のとにかく朝からビールを飲みたい人たちが集う店とのことだった。
名前をキッチンアドリアという。

「そういえば俺、行ってみたい店があったんでした」

「どこです?」

「アドリアです」

キッチンアドリアで食べ物を頼むと、マスターが惣菜を買って来てくれるという話を聞いたことがある。キッチンアドリア本当のキッチンは、裏手にある24時間営業の東急ストアなのではないのか?と噂されるほど不思議な店だ。そんな激シブスポットを、もちろんHさんも知らないわけはなかった。

「アドリア……?あー、あそこですか。いいですけど、本当にみつるさん、そういうところ好きですねえ」

こんな会話をしたかもしれないし、していないかもしれない。酔っていたので許してほしい。とにかく二人でアドリアに向かった。


その建物の中はガランとしていて、というか、何もない。残されたカウンターは若干埃っぽく見える。引き戸は固く閉ざされていて、ガラスから少し覗ける程度だ。これはもしや、閉店……?ネットで検索してみるが、情報はどこにも無い。
何も無くなったカウンターの上にポツンと取り残されたエアコンのリモコンが寂しそうにしていた。
その日は諦めて別の居酒屋に行き、昼まで飲んだ。
後日、噂で夏の終り頃にお店が閉まったらしいというのを聞いた。行ったことのないお店なのに、俺は少し切なくなった。


もう一軒、俺が行けないまま閉店してしまった店がある。やよひという店だ。かなりコアな人たちが集うと噂の店で、営業時間はAM5:00からAM10:00という、俗に言う訳のわからない店だ。一体どの層向けに営業していたのだろうか。どの層向けというか、だいたい、そんな時間帯などコアな人しか集まりようがない。
お通しにナポリタンが出てくるという話も聞いた。俺の知っているお通しと違う。これは別に、高円寺だからある不思議な飲食店というわけではなく(もちろん土地柄もある程度関係はあるだろうけど)どの街にも不思議で、入りづらく、だけど営業が続き、いつの間にかひっそりと無くなっているお店はあるものだと思う。俺はそういう店がたまらなく好きだ。


誰も知らずにひっそりと閉店する店は数多い。俺には飲食店の運営経験がないので、何があって、どんな理由で閉店するのかは想像の域を出ない。もちろん常連にはずいぶん前から知らされていたりするかもしれないし、そうでなくても「あ、明日でお店閉めようかな」という思いつきでの閉店は無いと思う。
「もう自分は心の底からやりきった。悔いはない」と思ってお店を閉める人もいるかもしれないし、不本意での閉店もあるだろう。俺には想像することしかできない。
店主の気持ちを想像すると、俺は吉田拓郎の『永遠の嘘をついてくれ』という歌を思い出す。

傷ついた獣たちは最後の力で牙を剥く
放っておいてくれと最後の力で嘘をつく
嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに


こんな一節がある。別に嘘をついているわけではないのだが、どうしてもこの一節を思い出さずにはいられない。
放っておいてくれと思っていないかもしれないし、最後の力でなんてないかもしれない。ただ、もしそうだったとしても、あえて周囲にそれを言わないことがプライドなのではないかと感じてしまうのだ。
哀れみや同情などは欲していない。人はどうしても、何かの終わりを感じると「可愛そうだな」とか「辛そうだな」とか、そういうことを考える。自分に関係があろうがなかろうが、そう思ってしまう人は少なくない。だからといって相手がそういう感情を持ってほしいと思っているかといえば、全てがそうあるわけではない。すぐに忘れて欲しいと感じている人もあれば、生涯忘れないで欲しい人だっているだろう。

だが、俺はこの歌詞に最後の力強さというか、一欠片のプライドを感じる。いいのだ、自分のことなど話題にのぼらなくても。

「あいつ、昔あんなこと言ってたけど、今どうしてるんだろうな。誰か連絡取ってるやついる?」

いなくていいのだ、そんなものは。大きいことを言ったとして、それが叶わなければ全てそこまでで、忘れてくれて構わない想いだってあるのだ。

ある種のヒロイズムかもしれない。だが、自分の人生の節目を、誰に遠慮する必要があるのだ。好きなようにやればいい。そしてそれを自分の心底から思おうが、薄っぺらな強がりだろうが、どちらでも構わない。それにいつかまた、消えた者が力を蓄え、俺達の前に颯爽と現れるかもしれない。
物事には常に想像できない『先』がある。それは目に見える終わりを通り越して、始まりに繋がっていることだってある。


今、SNSがインターネットの主流と言っても過言では無いだろう。有名所ではインスタグラム、ツイッター、フェイスブック、利用者は世界中にいて、その他の細かいSNSも列挙に暇がない。
様々な感情を、その人なりの言葉で書き綴る。

「こんな面白いことを考えたんだ!」

「最悪だった話を聞いてよ!」

「自分ってどうしてこんなにツイていないんだろう」

世界中に発信されるその言葉たちは、誰かに共感して欲しかったり同意、同情して欲しかったりするものが数多い。
というか、人間は基本的に自分をわかって欲しいのだ。それを決して悪いこととは思わない。だからこそ人間には協調が生まれ、世界中に素晴らしいものを残してきた。

だが、そうでない生き方や感情もある。ただ一人、自分だけがわかっていればいいことだって、ある。強がりだったとしても弱音だったとしても大切な意思で、本人にとって本人の意思以上に大切なものなど無い。


飲食店だけではない。その他の業態の店舗だったり、ブックマークに登録しているブログだったり、形は様々だが、自分の観測範囲からの緩やかなフェードアウトは数多くある。
そんな時、俺は勝手に思ってしまう。

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに


そしてこの歌はこのように締めくくられている。

出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ


それでいいじゃないか。
俺はお前を忘れはしない。
それで、いいじゃないか。

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