おがわしょうじ

株式会社オガラボ代表の小川祥二です。

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最近の記事

MUTE BEATとかマルセ太郎さんとか

J-WAVE深夜の「Tokyo M.A.A.D SPIN」は好きな番組。特に毎週火曜日の高木完さんの日はほぼ毎週聴いている。1月30日と2月6日は元MUTE BEAT のこだま和文さんがゲストだった。 MUTE BEAT好きだったなあ。いろんなことを思い出したよ。 86年。シティボーイズに、渋谷で同時多発的にやるイベントの出演依頼があった。 オーバーヒートレコードという会社だった。 ミドリヤの店頭でネタをやってくれてとのこと。雑踏の中でネタなんかやっても誰も聞いてくれないで

    • ある新入社員

      名前はNとする。何年だったかも忘れたのだが、ある日社員募集という情報を知ってある男が会社に来た。 社長面接を側で聞いていたが、真面目そうだが暗い雰囲気で喋りも訥々としていて、なんかなあ、コミュニケーション能力が低そうな雰囲気。 社長は採用するつもりだという。 いやいや、続きませんよお。暗いですよ。 「でもな、広島大学出てんだぞ、あいつはよ。」 学歴関係ないって、社長言ってたじゃないですかあ。それに暗くないっすか? 「人間変わるもんだぞ。」 そりゃそうだけどさあ…。 と、あっさ

      • はるか昔の地震の話

        地震の記憶 1964年の6月16日新潟地震があった。13月1分。マグニチュード7.5。震度5だったという。 同年6月6日から11日迄新潟国体があって、うちには他県の陸上の選手が泊まっていたりしてなんだか盛り上がっていたような気がする。 小学校3年生だった自分は、その国体で市内の小学生が強制参加されられた「雪ん子の春」なんてマスゲームが嫌でたまらなかった。 その頃は友達もいなく孤独だった。もともと入学式から1ヶ月間怖くて登校拒否していたくらいの内向的な性格だったのだが、なんと

        • 南部虎弾さんの訃報

          電撃ネットワークの南部虎弾さんが亡くなった。 もう40年近く前、キムチ倶楽部の頃に初めて会った。六本木のバナナパワーだったと思う。キムチ倶楽部は南部さんと後にダチョウ倶楽部になる上島肥後寺門の4人組。 迫力のある変な人だという印象。頭をぶつけたら鼻から髄液が流れ出たとか、稽古中の理不尽な発言などのエピソードもたくさん聞いた。 その後円山見番寄席でも一緒になった。今と違って若手の芸人の数が少なかった頃だったこともあって、何か現場があるとしょっちゅう顔を合わせていた気がする。飲み

        MUTE BEATとかマルセ太郎さんとか

          今野さんのこと追加/いろいろとキャスティングの話。

          今野さんのこと②/いろいろとキャスティングの話。 やがて今野さんは事実上定年ということになった。 そして今野さんは俳優業に転向して人力舎所属タレントとなる。 というのも、その前から今野さんには元芸人というキャラクターもあったので、たびたび何らかの出演の依頼が来ていた。 ビシバシステムは、「東京バビロン寄席」だったか「人力舎祭り」だったか「バカ爆発!」だったかで出演オファーをした。 昔取った杵柄、というより生活のタツキであったSAXをネタで吹いてほしいとのこと。 カッコつけた

          今野さんのこと追加/いろいろとキャスティングの話。

          養成所13期生のこと

          養成所13期生の時のある日。 当時自分は養成所の運営と、ライブ「バカ爆走!」の制作をまかされていた。 前任者が作ったライブの中のコーナー「ワイルドカード」のネタ見せも毎月やっていた。ネタ見せとはいわばオーディションのことね。 このコーナーは、人力舎所属以外の芸人たちが出演して1対1のネタバトルをやる。審査員は観客。5回勝ち抜くと「バカ爆走!」のレギュラーになれるという企画だった。おぎやはぎもこのコーナーがきっかけで人力舎所属となった。 まだ他事務所が積極的にお笑いライブをや

          養成所13期生のこと

          ネタバレありの極私的映画感想不快な思いさせてすいませんゴジラ

          自分は多分「へそ曲がり」って奴なんだろうと思う。人がいいと言ったものにはなにか懐疑的に見てしまう傾向にある。 素直に楽しめないのだ。 「ゴジラ−1.0」がそうだ。 凄く評価高いのは理解している。自分自身も映画そのものを楽しんだ。ポイントでは涙したりした。 が、やはり「シン・ゴジラ」と比べてしまっていた。 ここからはネタバレもするし、手放しで面白いと思っている人はこっから先は読まないで欲しいのね。あくまで個人の意見なので怒らないでよ。 飛び降りがあった翌日の新宿TOHOシネ

          ネタバレありの極私的映画感想不快な思いさせてすいませんゴジラ

          今野さん

          今野さんのこと。 千駄ヶ谷ルノアールでの社長面接の後、話があるから事務所に来いとのことで初めて人力舎に行った。給料のこととかかなあ? 東中野駅から電話をして場所を聞く。訛りが凄くて聞き取り辛かったがチャンポン屋の2階というワードでなんとかたどり着いた。イソベコーポ。 おじいさんが迎えてくれた。強い東北訛り。あとで山形弁とわかる。 「そっかそっか、腹減ってるかあ?」 いや、それほどでも。 と、断ったが、シミだらけの汚ったねえストーブの上で餅を焼き始めた。 なんのシミかしら?

          上京して演劇と出会う/パレスチナ

          大学受験に失敗して上京した。予備校通いながら初めて観たお芝居が「劇団暫」だった。兄の勧めだった。何かお芝居観たいなあといったらすすめてきた。兄のいる早稲田大で人気の劇団だと聞いた。 大学の隣りにある予備校に通っていた。大学校内でチラシをもらったので行こうと思った。 小中学校で同級生だったが中学の途中で転校していった協子ちゃんを誘って観に行った。ちょっと好きだった。 早稲田の6号館、国際学部の屋上に、69年くらい、学生運動の頃に長屋のように不法建築のアトリエが建てられていた。学

          上京して演劇と出会う/パレスチナ

          まだ小林さんだった人との遭遇

          まだ事務所が東中野にあった頃。多分86年、一本の電話がかかってきた。 「あのうぼく小林と言います。えーと、ブッチャーブラザーズさんに出演をお願いしたいんですけどぉ……。」 小林?誰だ?丁寧な口調だ。 どういった内容でしょう? 「自分、バンドやっているんですけど、今度新宿ロフトで2バンド出るライブやりまして、その入れ替えの時に芸人さんにネタをやってもらいたくて…。」 はあ…。 「2日間やるんですけど、その2日目に出ていただきたいんです。」 バンドライブとかは自分も嫌いではないが

          まだ小林さんだった人との遭遇

          入社数年目で初めて知った?/エージェント契約の話

          今エージェント契約が少し話題になっていますねえ。ジャニーズの新事務所はエージェント契約になるとのこと。 ワイドショーなんか観ると、日本ではまだぜんぜん認知されていないと皆さんおっしゃいますね。 いやいや、これ、以前は当たり前のことだったのですよ。 現在、プロダクションとか言われているところでも会社の定款を取るときには、 「芸能家斡旋業」 とかのジャンルで取得していた事が多かったのです(他にもいろいろ書いて登録しているでしょうけど)。あくまで「斡旋」でした。つまりエージェントで

          入社数年目で初めて知った?/エージェント契約の話

          入社してすぐの話。

          入社してすぐの頃の話。 なんだかつまらないと思っていた。 朝10時出社。事務所内を掃除。狭いのでそれほど大変ではない。雑巾が全部古くて臭いのには辟易した。買い換えたいのだが、デスクの今野さんは強い山形訛りでまだ使えんだろう?という。大正生まれらしい考えだった。 それが終わったら出社してきた今野さんの話相手。お茶をいれる。相槌をうち続ける。そして電話番。午前中なんかほとんど電話はない。たまにあっても相手がどんな人かもわからないのですぐ今野さんに代わるか連絡帳に伝言を書きとめる

          入社してすぐの話。

          養成所でのこと。

          16期生の時の話だから、もう16年も昔のこと。 ある日の授業中だった。 エチュードをやっていた。 どちらかというとツッコミ養成のためのエチュードだった。 設定と役割を与えて、欽ちゃん風にツッコミを入れていってボケのキャラクターを引き出そうという試み。 この期には元警察官コンビがいた。曽根崎署の元刑事と北海道の元機動隊員の警察学校同期のコンビ。 その元機動隊員がエチュードで、けっこうきついドツキツッコミをやっていた。 やりすぎじゃないか? 痛そうに見えたら客が引くよ。 その時別

          養成所でのこと。

          備忘録/僕がトマトを食べたとき

          備忘録/僕がトマトを食べたとき 1988年の夏。ブッチャーブラザーズのリッキーがお芝居の舞台をやりたいと言ってきた。 自分たちのコンビではなく、B-21specialのヒロミと一緒にだという。 この頃はお笑いライブもガンガンやっていて、舞台に関して社長は何をやってもOKをだしていた。B-21もそれなりに売れてきた頃だし。 作演出は岡博之&小園浩己。リッキーとヒロミの本名。 お芝居なので、劇団「夢知無恥」の作家であり演出家の下等ひろき氏に監修として入ってもらった。といっても出

          備忘録/僕がトマトを食べたとき

          養成所の話 そのご

          人力舎が最初に事務所をかまえたのは東中野。新宿寄りの改札から南口へ出てそれほど栄えていない道沿い。商店もいくつかあったが大久保通りから山手通りへの抜け道といった方がわかりやすい道。一階にチャンポン屋店があるビルの2階だった。8畳くらいの狭さだった。シティボーイズが売れ始め、B-21スペシャルもなんとかなりそうだし、若手芸人も多くなってきたので引っ越すことになった。 次は中野坂上。交差点のほど近い青梅街道沿いのマンションの2階だった。一階は珈琲の美味しい喫茶店。 広さは前の3倍

          養成所の話 そのご

          養成所の話 そのし

          社長は読書家だった。もともと好奇心の強い人だったのだろう。学歴は無いが勉強意識は高いタイプ。フィクションノンフィクション関係なく玉石混交ピンからキリまで何でも読んで知識を取り込もうとしていた。 小説では特にSFが好きで、愛読書はペリーローダンシリーズ。日本では50年以上前から刊行されているSF小説。これだけは毎回書店から取り寄せていた。あまりにも長いシリーズで、とんでもないアイデアの設定ばかりになっているやつだ。 創作には何事も想像力は必要なのだが、お笑いというジャンルも特に

          養成所の話 そのし