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答えはいつも自分の中にある

少し前から、私自身の歩みを私小説風に書いています。
はじめて書くわけではなく、今回で3回目。最初に書いたのは、20年以上前です。当時個人のホームページを開設したり、掲示板で音楽仲間と交流していたときに、毎日少しずつ書いて、友人たちの間では「青グラ」と呼ばれていました。

今回、また書き直そうと思った理由は2つあります。
ひとつは、デビュー以来ずっとファンである浜田省吾が、今年デビュー45周年を迎えたこと。
高校1年の秋、広島大学の学園祭で「稲妻が~俺の身体駆け抜け~」的な出逢いをしました。(学園祭出演は、中島みゆきの前座だったのです)
以来、彼の生き様や曲が、私の生き方・考え方に大きく影響しています。
彼のこれまでの軌跡を辿るように、どのような影響を受けて私自身が歩んできたかを書きながら振り返ってみたいと思いました。

もうひとつの理由は、自分の生き方や考え方を何かの形で記録に残しておきたいと思ったからです。
これには、母のことが関係しています。
私は私立の中高一貫校に進学したので、小学校卒業後に親元を離れ寮で生活しました。そして大学は京都、就職は大阪で一人暮らしをした後結婚し、そのまま大阪に残りました。再び両親と深く関わるようになったのは、30歳を過ぎてからです。
37歳のときに、母が癌で亡くなるまでの7年間は、長いブランクを生めるように母に寄り添って過ごしました。自分の命の期限を知り、一人でその準備を進めていた母を通して、生きることの意味や自分らしい人生の歩み方について考えました。

でも、そんな母の看護師時代のことや学生時代のことは全く知りません。母の古くからの友人や親せきの叔母からは、「考え方や行動が、お母さんにソックリ」とよく言われます。私は、今でも母とともに生き続けているのだと思っています。
母からは直接聞けなかった、青春時代のこと、結婚するまでのこと。だったら、私は私自身のことを自分で記録に残しておこうと思いました。
「青春グラフィティ」は、16歳から29歳までの私自身の歩みです。

自分で言うのもおこがましいですが、ドラマみたいな毎日を送っていました(笑)。

「答えはいつも自分の中にある」そう信じて歩んだ14年の記録です。
私自身が、今、大切にしていることは、この時期に得たものが多いなと思っています。

2人の娘たちには、この手記を見せるつもりはありません。でも、これから2人が様々な経験をして、自分の人生を歩んでいく中で、きっともっと悩んだり方向性を見失ったりすると思います。そんなときに一緒に考え一緒に乗り越える存在でありたいと思っています。
亡くなった母は、きっとそうしたかっただろうなと思うし、私自身、母とそういう関係でともに人生を歩みたいと思ったから…。


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