「役に立つ歴史」とは何か

#哲学対話レポート #哲学対話 #本質観取

先日、「『役に立つ歴史』とは何か」という問いをめぐって、哲学対話をしました。

哲学対話の前日まで、「先生が生徒の進路にどこまで口を出すべきなのか」「学生に、自分の教育方針をどこまで自由に決めさせるべきなのか」という二つの問いについて考えていました。子供の頃、進路に最も影響力のある人物は大抵両親、友人、先生だと思いますが、どれも子供の希望職種に詳しいとは限りませんので、その職業に就いている人の意見も参考にした方が良いと思いました。ただ、教師はどのような生徒がどのような道をたどっていったかを良く把握しているため、教師の意見も参考になるかもしれないと思いました。

哲学対話の当日は、最初に「いい役に立つ歴史と悪い役に立つ歴史」「『役に立つ』という言葉の主観性」などの話が出てきましたが、「どの歴史も誰かの役に立つ」という答えが出された時、この質問はもう完結したと思いました。それから「何の・誰の役に立つか」という話になりました。外交やプロパガンダなど様々な目的が挙げられ、それぞれの目的に対する歴史の有効活用についての意見が上がりました。最後に、歴史とアイデンティティを切り離して考えることは可能かどうかという問いが出されました。

哲学対話が終わってから私が個人的に思ったのは、「全ての歴史が役に立つ」、やはりその一言で片付くということでした。それ以上話を広げようとすると、歴史の使い道の例を挙げ、それぞれの目的に良い使い方と悪い使い方についての話になります。しかし、歴史の使い道の羅列になるときりがないですし、一つの使い道に焦点を当てると、専門的な話題になってしまいます。どうせ専門的な話をするなら、今回のトピックの「教育」という目的に焦点を当てていれば同じ土壌に立てたかもしれないと、後になってから思いました。

2回目の哲学対話を終えての感想としては、問いの立て方が大事だと改めて思いました。今後、話の可能な展開をより考慮しながら問いを考えていきたいと思います。

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