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轟洋介のオタク、HiGH&LOWへの感謝を大いに語る②


 もうお気づきかと思うのだが、この稿の目的はHiGH&LOWや轟洋介の魅力を情熱的にプレゼンすることではない。感動の共有でも考察でもない。筆者の私的な記録にすぎない文章だ。「な、なぜこんなものを…(しかも長いな…!?)」と不安に思われる向きもあるだろうが、しかし目的はタイトル通り感謝であり、書かれることは感謝に至る道筋である。安心してほしい。

①世界はいつも難しいが、HiGH&LOWの世界はひときわ難しい。


 HiGH&LOWと筆者がいつでもうまくいっているわけではない。

 なぜなら、HiGH&LOWでは筆者がこれまで付き合ってきたどのコンテンツよりも、『空気を読む』ことを求められるからである。
 別の言い方をするなら、言葉(セリフ)ではなく、動き(アクション)や見た目(ファッション・のみならず役者本人のが持つ背景まで!)でキャラクターの性格・関係性・ストーリーを展開させる。それを読み取る能力が筆者にはないのである。
 殴りあったもの同士、友達になる。それは爽快な展開かもしれない。だが、筆者はそういう経験は一度もないし、殴ってきた人間に好感を抱くことはありえない。一生許さないかもしれない。だから、「お前のこういうところが好きだ」というダメ押しのセリフ(説明)を聞かなければ納得ができない。

 同じように『HiGH&LOWの世界の空気』を読めていないのかなという男が轟洋介なのではないか?
 わざわざ登場した「マイルドヤンキーではないヤツ」なのだから。
 筆者の興味の持ちようは、最初そこにあった。轟洋介は、周囲とズレている感じがあるキャラクターだ。

 本題に入る前に、大切なことを確認しておきたい。
『HiGH&LOW THE WORST』で『最高の男』になってしまった轟洋介が当初どんなキャラクターだったかをご存知であろうか。
ドラマ版未視聴の方もおられるかもしれないので、僭越ながら筆者から簡単にドラマ版シーズン2・エピソード7(轟洋介登場回)のあらすじを説明をする。

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 幼い轟洋介はいじめられていた。
 クズどもにカツアゲされることを受け入れる日々。そんな状況を打破するため、轟は「やるしかねぇだろ」と一念発起。格闘ゲーム(鉄拳)の影響も受け、自らを筋トレで鍛え上げることに成功する。
 力を得た轟洋介はクズどもを『狩る』ことに興じる。
 ヤンキーたちをぶちのめし、ぶちのめした姿を写真におさめることが『快感になった…』とはっきりモノローグで語られる。このシーンで描写される轟の微笑みはスクールカースト上位者には理解されぬ暗い悦びに満ちている。

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 その後、十分な実力を見につけた轟は、クズどもが集まる鬼邪高校全日制に転校してくる。
 クズどもをぶちのめし続け、そして最後にはSWORDのテッペンをとり、「名誉と栄光」を手にすることを目標にして。
 当時全日制のアタマをはっていた辻と芝マンを下した轟は、鬼邪高校のテッペンは定時制の村山であることを二人に教えられる。轟は定時制と全日制を間違って転校してきてしまったのだ。
 しかしそんなことは気にもせず、轟は鬼邪高校のアタマである定時制村山に即座に対マンを挑むが、相手にされない。
 相手にはされなかったのだが、辻と芝マンは確かな実力を示した轟の下に下る。こうして全日の三人のチーム(今で言う「轟一派」)は結成された。過去回想ではなく、視聴者が見ている時間軸でリアルタイムで結成された唯一の派閥である。

 村山が闘志を失っていることに業を煮やした轟は、ついには武器を手に(※しかもスタンガンさえ使った可能性がある!)卑怯な手段で村山の一味を急襲してボコボコにし、村山の腹心である関を人質に電話で村山を呼び出す。
 ここで一般常識をもって轟を「やんちゃだなあ」などと断じてはならない。

 先述したように、HiGH&LOWの世界では武器をつかうことは「巨悪」である。

 轟洋介は友人もおらず、家族や土地を省みず、当初HiGH&LOWの世界ではあきらかに負の記号であった『眼鏡』をかけており、おまけにこれまでのHiGH&LOW悪党史でも稀なほど卑劣な「人質をとる」人間だ。定時制に武器をもってカチコミ、あまつさえそれをビデオ通話で見せ付ける。
 関を心配した村山がかけつけると、轟は、関を踏みつけてソファにふんぞりかえっているのである!

 巨悪である。

 端的に言って、このキャラクターは登場時にはヒールであり、後に「改心」して仲間になるタイプのキャラクターだ。
 前田公輝さんの独特の存在感とアクションの素晴らしさ・解釈の深さが、強さにも悪さにも最高の説得力を与えている。

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 ではいつ「改心」したのか?

 なんだか気がついたらマイティにもボロ負けて、その後『THE MOVIE』ではいいやつになっていたような…? 村山とのタイマンで性根を叩きなおされのかな…?

 筆者にとって轟は、長い間そういう「なんだかよくわからないキャラクター」であった。キャラクターへの理解力が弱い筆者にとって、あの秋の夜に興味を持ちはじめなければ今でもそうだったの違いない。

②改心、その瞬間。


 いつ「改心」したのか?
 そういう観点で轟を見ていると、いろいろ気がつくことがある。
 そもそもHiGH&LOWには「改心」のシーンが多い。HiGH&LOW初期は基本的に「拳による改心」の話だ。殴って狂った人間を正す。時計か?

 轟と村山の対マンはHiGH&LOWベストバウトに一つに数えられることは間違いない。この素晴らしいアクションについては思い切って割愛しよう。

 対マンは村山の勝利に終わり、轟は負ける。
 そして村山は、未熟な(この時点ではまだ悪役である)轟に言う。
「お前が強いことは認めてやるよ…でもなあ…拳が強えだけじゃだめなんだよ。もういっかい勉強しなおせバーカ!」&デコピン。

 だが本当に大切なのは言葉ではない。

 本当に大切なメッセージはいつも「拳で」「心で」伝えられる。
 筆者はHiGH&LOWのこういう面にいつも痺れるが、同時にひどく寂しくさせられる。言葉をもっと信じてくれHiGH&LOW。拳ではなく言葉で語りあおうHiGH&LOW、と何度お願いしたことかわからないほどだ。

 そういう筆者にとって、続く敗北後のシーンは、特別な意味がある。 

 ……このすばらしい一戦の後、敗北した轟は、連れの辻と芝マンに手を差し伸べられる。
 きっとこの手を受け入れ、立ち上がった轟洋介はさわやかさをまとってしまうに違いない。村山を眩しそうに見つめてしまうに違いない。
「拳」で伝わっちゃってるだろうからな…HiGH&LOWの男たちはすぐ「拳」で伝わっちゃうのだから。
 そう諦観する筆者の想像は裏切られる。
 轟は仲間の差し出した手を振り払う。
 この姿が、勝負の「後」に入るのが確信的だ。
 村山の言葉の意味が、拳の意味が、轟を伝わったのであれば、ここで自分にも仲間がいたのだと気がつき、二人を受け入れる…という芝居になるのが普通ではないか?

 だが、拳なんかではヤンキーではない轟は何も伝わっていないのだ。

 感動的なシーンだ。

 『伝わらなさ』をちゃんと描いている。そういう誠実さがある。
 わざわざHiGH&LOW文脈から離れたヤンキーではないキャラクターを登場させた意味がある。
 しかも『伝わらなかったこと』を村山は理解していることまで描いている。
 村山は轟に声をかける辻と芝マンを見て「轟の周りには仲間たちがいる」ことを理解し、その上で「でもよお/仲間がいるだけじゃ駄目なんだよ/てめーがかわんなきゃどうやら世界もかわんねえみたいだわ轟/そのうちお前にもわかるよ」というモノローグで(直接ではなく!)この戦いを結ぶ。轟はこの問題をいったん持ち帰ることになる。

 この流れはHiGH&LOWの世界では珍しいことではない。
 村山自身、シーズン1のエピソード3でコブラに敗北し「俺とコブラ何が違えんだよ!」と葛藤し、以後シーズン2のエピソード8まで思い悩む。思い余って轟の存在をコブラに相談すべく山王まで赴く。
 押上とコブラは村山に欠けているものは「看板しょってる覚悟」であり「無駄な血を流さないため」(仲間のため)に力を使うこと・使いたいと思うこと(=熱さ)が必要なのだとはっきりとセリフで教えてくれる。HiGH&LOW離れした親切さなのだが、村山はコブラの熱さを「羨ましい」と感じはすれ、まったく実感を伴わない。

 村山が全てに納得するのは、轟とのタイマンの最中である。

 このエピソードもまた拳による村山の成長を描いている。
 村山がかつての自分そのものである轟と対峙することで、過去の自分に拳を向ける。轟への勝利は過去の自分への勝利であり、力だけの自分を乗り越えるエピソードだ。
 轟は村山の影でしかなく、したがって轟の問題が解決する余地はこのエピソード内では乏しい。しかしそれでもここで描くのが一番てっとりばやい。
 それなのに轟をこの時点であっさりと改心させなかったことが意外だった。
 HiGH&LOWは、轟洋介がHiGH&LOWの文脈を知らない人間だと知っている。それでいてこの時点ではわりとそのままほっといている。

  とすると、轟洋介はいつ改心したのか?

 提示された情報だけを追っていくと、シーズン2エピソード8で村山に負けたことをきっかけに変わり始め、エピソード9でのMIGHTY WARRIORSへの敗北後にドラマ上では描かれてはいないさらなる変化(仲間を傷けられる痛みや「身の程」を知ったゆえの)があったのだろう。
 その後の『THE MOVIE』、村山を叱咤したりトラックで乗りつけたころには仲間への「熱い思い」が生まれているのだろうか? この時点の心情を読み解くことは筆者にはできなかったのだが、この時点の轟を動かしているものは邪高愛ではなく村山への執着だと前田公輝さんは様々な媒体で語っている(※2)
  するとポイントはコンテナ街大抗争後だ。仲間たちと自分たちの居場所を守るために共闘した後、勝利の一報を聞いて雄叫びを上げるシーンか? いや、どちらかというとラストのエンドロールで改心したと考えるのが妥当そうだ。ここで轟は笑顔を浮かべ、自分から辻と芝マンにハイタッチし勝利を喜ぶ。村山のモノローグへのアンサーになる画だ。轟が変わったのだ。

③なにがわからないのかも、わからなかった。


  以上はもちろん想像でしかない。

 しかし「変わった」…とは?

 どういう状態からどういう状態に「変わった」のだ…? 
 轟洋介の描かれ方を確認するためにドラマ&『THE MOVIE』の筋を追いながら見返すが、なかなか集中できない。というか、そんなことがどうでもよくなるくらい様々な疑問が押し寄せ、はっきりとした違和感が自覚されはじめたのだ。

 正直に言えば、筆者にとってHiGH&LOWの大部分は大いなる謎である。わけのわからないシーンがたくさんある。だからこそ惹かれるのだ。

 これは『解釈』というレベルの話ではない。筆者は人一倍感受性が鈍く、オタクではあるが知的ではない。シンプルに、九十九さんが九九がわからないのと同様にわからないのである。
 たとえば上述した轟戦の後の村山のセリフ「お前が強いことは認めてやるよ…でもなあ…拳が強えだけじゃだめなんだよ。もういっかい勉強しなおせバーカ!」についても、改めて考えると筆者は明確な意味は掴みかねていた。
 わかるような気はするのだ。いい雰囲気で、喧嘩…「拳がつえ~だけじゃダメ」…もっともである…看板…絆…デコピン…なんか一件落着ムードだし…納得してしまいそうな気もする。
 当初、自分が何にひっかかっているのか、それさえも筆者にはよくわからなかった。村山のセリフのどこにひっかかりようがあるのか?

 この件について熟考した結果、明らかになったのは筆者からHiGH&LOWへの噴飯ものの誤解だ。

 HiGH&LOWにはすべてを包み隠さず打ち明けようと思うのだが、実は筆者、繰り返しHiGH&LOWを見ていた癖して、ここにいたるまでHiGH&LOWでは「拳が強いだけでいい」と思っていたのである。

 実際、このセリフについて検討するべくHiGH&LOWを注意深く見返すと(居場所や、家の名前、家族、大切な人、時には命、女といった)大切なもののために暴力を振るうという男ばかりで、力そのものに耽溺している男はいないではないか。

 てっきり自分のために楽しく喧嘩をしてるヤツばかりだと思っていたが…そんな奇抜な人間は轟洋介ただ一人だ。

 というか今の今まで村山はその話をしていたのか!
 いったい筆者はシーズン2のエピソード8の何を見ていたのであろうか?
 山王を守るためにしか力を振るわないコブラはともかく、元気イッパイご飯を食べます!喧嘩大好き!みたいなヤマトでさえ…いやむしろ、ヤマトは思慮深いとさえ言って良い! ラスカルズはクラブheavenのブランドを守るため、女のために警棒を振るう。RUDEはいわずもがな生きるため、達磨は取引と復讐…。
 それどころかシーズン1の(後に「単なるボスだった」と評された頃の)村山でさえも、山王戦における判断は非常に慎重だ。

 みんなにとって喧嘩は「仕事」か?
 娯楽ではなく義務なのか?

 確かに「大儀なき喧嘩」の無意味さ、むなしさ、愚かしさ、それは理屈ではわかる。「拳ひとつで成り上がる」その先を見失っていた村山にとって、これは大きな問題として描かれていた。

 だが、それだけではまだ筆者は腑に落ちない。

 理由の話になってくると、話がこんがらがってこないか?
 大切なもののための暴力はよいのか?いい暴力と悪い暴力があるのか? 「仲間」や「絆」があるからこそ争いが生じるのではないか?まさにそれこそがこれまでSWORDで描かれてきた悲劇ではないのか?「仲間」や「絆」が喧嘩の実力を、勝敗を、価値を、左右するのか?「自分の尊厳」のための暴力は価値がないのか? 一人だからこそ得られる強さもあるのではないか?スポーツ・武道・格闘技はどう考えているのか?それと鬼邪高ファイトクラブの違いはなにか?………

 これら陳腐な問いかけは、筆者にとっては大きな意味を持つものであった。

 暴力!すごい!強い!カッコイイ!はしゃいでいた筆者は怒られたのだ。HiGH&LOWに。びっくりしてしまうではないか。
 案外真面目なんだなHiGH&LOW?と思って見返すと、案外どころではない。すごく真面目なのだ。

 脳直映画を見るということは、誰かの脳と繋がるということである。あるかないかの薄い皮一枚の向こう側に相手はいる。相手の息の匂いさえ感じられそうなほどだ。この人間は引くほど真面目だ。
 HiGH&LOWは映画は映画、現実は現実、などとはきっと思っていない。この映画を通して人が生きる上で真に必要なメッセージを送りたいと思っている。だからこその真面目さは、カルト宗教が制作する映画と本質的には同じだ。

 だがこれは"絶対"なのだが、HiGH&LOWもまた暴力!すごい!強い!カッコいい!とはしゃいでいるはずである。HiGH&LOWはその折り合いをどこでつけているのだ。
 そう思って内容を振り返れば、この「折り合い」はHiGH&LOWの主軸に連なるテーマのひとつである。

 シーズン1において、ナオミはその点に触れていた。
「仕返しして、またされて、その繰り返し…憎しみの連鎖」は無意味だと。これは「大儀があっても」暴力を否定するという一貫した主張である。(余談だが、筆者はナオミに最もリーダーとして資質を感じる)
 主人公コブラもそのことを迷い悩み、「したくもない喧嘩に巻き込まれた(が、やるっきゃない)」と煩悶し「山王連合会なんて作らなければよかった(が、ノボルのために作った)」とまで懊悩し、ついには「(ノボルのために)山王を解散する」とまで言う。争いの連鎖を断ち切るため、ノボルが九龍に車で轢かれても復讐はしないと仲間たちに告げたりもする。
 エピソード1(プロローグ)の段階から、山王連合会は「降りかかる火の粉を払う」ことが主な活動であり、治安の悪いこの街の平和を守っている旨が何度も伝えられる。

 はじめからみんな、この話をしていたのか…。

 このとき、筆者ははじめて、HiGH&LOWの『ストーリー』と向き合ったといってよい。


④『仲間』『絆』から無限に生まれる抗争と暴力。


『HiGH&LOWのストーリー』

 これは筆者を悩ませた。
 これは何の話なのだ?喧嘩の話だ。
 だが一言では説明しがたい。
 公式が言うにはこうだ。

『熱き男たちのプライドをかけた戦いの物語』

 とてもわかりやすい。

 結局はやっぱり喧嘩の話であるが、「喧嘩をしたくない人たちが悩みながら喧嘩をしている」という但し書きがつく。
 誰しもが致し方なく、苦しみの中で、あるいは必要に迫られて、それぞれらしい形で『結局は』暴力を選ぶ。
 ヤンキー漫画の文脈が強いSWORDでは、結局全員が「仲間」「絆」を守る、あるいは取り戻すために暴力で「ケジメ」をつけることが正しいと考えている。だから下っ端同士の小競り合いがすぐに抗争に発展し、メンツをかけた戦争になる。
 MUGENの下っ端が雨宮兄弟に手を出し抗争、日向会の下っ端がコブラに手を出し抗争、チハルが間違えて古屋を殴り抗争、ダンは下心からクラブHeavenで揉め事を起こして抗争。あらゆるささいな過ちが所属集団同士の抗争に繋がる。大変すぎないか?
 いつ抗争の引き金になるかわからない手下たちはみな「ときめきメモリアル」でいう爆弾のついた女の子たちである。丁寧にケアしなければいつ抗争が起こるかわからない。MUGENが100人以上の規模になったことが物語の崩壊を引き起こすのも道理だ。

 ここにきて「SWORDの均衡」という完全に筆者には理解不能だった概念が理解できてくる。

 これはきっと「お互いが貸し借り0」の状態になっていることを指すのではないか? SWORD同士ですべての案件が手打ちになり、誰かが誰かのために復讐をしたりする必要のない状況…。それは一瞬の奇跡であろう。どこかの誰かが今にも爆弾を爆発させかねないのだから……

 たしかにSWRODの均衡が崩れたら大変ではないか!!!!
 
 筆者は友人たちと何度もHiGH&LOWを見てきた。
 今更何を言っているのだ、と思う向きもあろう。SWORDの均衡が崩れたら大変だと何度も言われてきた。しかし、『轟洋介っていつどんなふうに改心したんだけ?』と確認しようとリモコンを手にしたことをきっかけに、ありとあらゆる喧嘩シーンのまったく違った目で見えてきたのだ。身もふたもないのだが、物語上の意味を検討しながら喧嘩シーンを目にすれば「これって何のために誰と喧嘩してるんだっけ?」という当然の問いが飛来するからである。
 そういうしゃらくさいことを考えないで楽しめるのがHiGH&LOWの長所であると思い込んでもいた。絵作り、音楽、アクション、かっこいいよね。物語?1コマ目で「ここがEXILEバトルランドか~」、これで説明完了である。これが筆者の理解であった。 
 だが違う。HiGH&LOWは考えていた。
 いつだって、よくわからない組織の下っ端がささいな喧嘩をはじめ、それが大きな抗争の引き金になる。自分個人に落ち度があろうがなかろうが関係ない。この世界は、『仲間』と『絆』の世界は、なにからなにまで連帯責任だ。地獄的である。
 ヤンキーの世界、めちゃくちゃ大変ではないか…。
このがんじがらめさが、共感力に乏しい筆者の心にやっと届いたのである。
 そんな状況の中、轟洋介は不良を狩るのが「快感になった……」であり、力を追い求め「名誉と栄光」のため村山に挑む。完全に個人だ。立場が違いすぎる。「えっ…なにやってるの??」と思われても無理もない。確かに「お前が変わらなくちゃダメ」だろう。しかしそうなのか?仕方ないのか?

 いやどうなんだろうこれは?????

 「仲間」「絆」地獄も大概である。
 我々がまったく認知していないモブの所属がきっかけになった大抗争が無限に勃発していくSWORD地区のありさまは神話的であり圧巻だ。「お前どこ中?」の世界観がそのままひとつの巨大なファンタジーに育っている。奪い合われる記号としての宝物やお姫様さえもしばらくは必要ない。完全にわけのわからないヤンキーのルールが支配するSWORD地区。
 だがヤンキーではない轟は別のルールでいきている。轟にだって事情はある。
 求められた役割は村山の影であったとしても、もともと「喧嘩だけが得意だった」村山とはわけが違う。
 HiGH&LOWお得意の「仲間」「絆」から疎外された轟のもとには、龍也さんはこなかった。もちろん自分の代わりに復讐を果たしてくれる集団はない。いじめられればそこから這い上がるため、自分を鍛えるしかない。トレーニングで体を鍛え、復讐のためにヤンキーを狩った、腕に自信をもって鬼邪高校にやってきた。 

 HiGH&LOWの『仲間』『絆』信仰の原風景は、遠い過去として語られる一瞬かつ永遠のきらめきである。
 琥珀さんには龍也さんが手をさしのべ、その琥珀さんが今度は九十九さんに手を際伸べた。孤独な放課後を過ごすノボルのもとにはコブラとヤマトがあらわれる。一人でララが泣いていればスモーキーが涙をぬぐう…。闇にふいに射す光…。
 その時間は過ぎ去っても、そのときの気持ちは『無限』である。これがHiGH&LOWの教義の一つだ。

 だが実際のところ、いったいどれくらいの人々のもとに龍也さんが来るというのであろうか?
 例えば筆者の話をしよう。理不尽な休日出勤を命じた上司を誰かがぶん殴ってくれることはない。労働組合もない。「また俺かよ?神からのご指名」とDO or DIEの精神で休日出勤に応えるか、あるいは自分で殴るしかない。

  轟洋介も自分で殴った。
 別に轟洋介は永遠に改心しなくても良いのではないか?

 これが筆者の出した感情的結論であった。だがもちろん、実際には轟洋介はHiGH&LOWの味方キャラクターなのだから、改心し仲間や絆を理解したのだろう。『THE MOVIE』を経て。
 しかし轟洋介のようなキャラクターは、物語の中でどうあしらうのが正解なのか?
 わざわざマイルドヤンキーじゃない人間を登場させておきながら、殴ってマイルドヤンキーにしなくてもいいだろう。『仲間』『絆』そんなこという轟を見たいやつっているのか?でもだからといって成長させないわけにもいかない。こういうキャラクターがこのままの姿でいてもいい世界であってほしい。

 『轟洋介の改心』について考えだした筆者は、思わぬことに、HiGH&LOWの『ストーリー』を少しずつ理解しはじめていた。
 その上、ああなってほしい、こうなってほしい、と夢想するようになったのだ。筆者に感情が生じたのである。

 筆者は、この轟洋介という男が『SWORDのテッペンとる』とまでブチかましてきたことに、意味を感じはじめていた。輝いてみえはじめていたのだ。お前さ……テッペンとってくれよ。
 HiGH&LOWの文脈からいかにかけ離れていようが、轟洋介もまた「全員主役」の一人のはずだ。
 様々なきらめくスターたちに囲まれながらも、張り合えるだけの存在感の強さがあり、魅力がある。Oのアタマの村山と互角のタイマンをはれるほど強く、それでいて仲間の話を一切しない男。 


 この世で一番カッコいい可能性がある。


 筆者にとってはこれはフェイクなしのリアルな「轟洋介のオタク」としての自覚が芽生えた「瞬間」である。


<③>へ続く

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※2017年11月15日深夜の再放送時に脚本家の牧野啓介さんが「スタンガンをもってかちこんだ」バージョンの脚本をツイッターで開示されている。放送上の問題で変更になったとのこと。また、実際にセリフ違いの「お前ら不意打ちか!武器つかいやがってきたねえぞ」「さすがの定時もやられっぱなしだなあ?」というセリフが入るバージョンのエピソード2-8も存在する。
決定版のセリフは「お前ら不意打ちか?セコイ罠しかけてんじゃーぞ」なので実際に何が起こったのかは定かではない。映像内には金属バットのみ映りこんでいる。
※2 村山を敵対視するだけではなく、彼の気持ちとリンクする部分を表現することで鬼邪高校の世界がいっそう深まると思い、そこを大切にしながら演じさせていただきました。(『HiGH&LOW THE MOVIE』パンフレット)(筆者注/映画の見所は)轟に関しては、トップの座を争った村山との関係性がですね。(ドラマで)戦ったことで、敵対心から”自分を変えた人間にブレてほしくない”っていう愛情に変化している部分が見られると思います。(『duet』2016年8月号)