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デンマークの1968年 続き

 前回はデンマークの1968年の若者を中心とする変革のうち、学生の動きを見てみました。今回は、ヒッピーの若者達の動きを追いたいと思います。

・ ヒッピー文化の若者達
 1960年代前半の世界では、社会実験や蜂起はまだ普通の若者のものではなく、理性主義的でエリート意識のある一部の作家や知識人のものであり、挑発的言動は文化的急進主義左派の特権でした。彼らは多くの経済的支援を得ていたエリート芸術家であり、そうした者達への反発と共に、1960年代後半になると、それまでに既にあった既存社会や資本主義社会、家父長的社会への反発やヴェトナム戦争への反対から(「殺し合うより、愛し合おうMake love, not war」が彼らのスローガンだった)、サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区を発祥とするヒッピー文化が生まれます。アメリカ発のヒッピー文化と1966年のアムステルダムでの運動「扇動者達Provoerne」に、デンマークの若者達は影響を受けることになります。ヒッピー達の共通分母としては、「盲目的な物質主義や消費主義の否定、疎外の否定、孤立と人間の搾取の否定であり、代わりに個人の自己決定を可能にする、実際的な社会主義の意味のあるコミュニティを作る」 というものでした。

 デンマークでこうした動きを主導し、68年の象徴的人物となったのが、前述のオーレ・グリュンバウムであり、彼は服を脱ぐことにより人々の注目を集めただけでなく、豊かな知識を背景に著作を次々に発表し、若者達を扇動していきました。オランダやパリへの旅行を通して国際的な若者の蜂起の先端に触れ、1968年に発行された著作『移住者 Emigrér』の中で、彼は若者の蜂起のための明確な指針として、まずは家族から国家まで、既存のものを破壊することを主張しました。家族とは孤立した閉鎖的な単位であり、女性はそこで妻という役割を持たされて社会の枠の外に置かれていること、学校は子供達から主導権を奪い、彼らに他人の意思を学ぶことを強制していること、大学では最もヒエラルキーが確立されており、形骸化した「長老のシステム」によって統治され、新しい考えは門前払いとなっていることをグリュンバウムは具体的に挙げ、そうしたものが全て時代遅れであり、こうした息苦しい束縛から解放されることを目的と前述の新左派の新聞で語りました。 新聞は硬派な内容のエリート学生対象から、こうして次第にヒッピー達を先導するものに変わっていき、それにつれてヒッピー文化に馴染まないエリート学生達は離れていきます。

 彼らが具体的に行ったことは、他国のヒッピーの若者達と同じく、キャンプ集会や音楽フェスティバルなどを通じ、非消費主義、非資本主義の、自然回帰を目指す「本物」の生活をするということでした。時には、2万5000人の多種多様な人々がデンマークのユトランド半島のチューに集まり、彼らはヒッピー文化の生活を実践し、グループ化し、玄米を食べ、音楽を作り、マリファナを吸い、裸で暮らし、様々な活動を繰り広げるなどの大規模なキャンプ集会にも発展しました。彼らは最終的にはユートピアの夢が破れ、雨や泥のキャンプ地で空腹や寒さに耐えなくてはならない状況となり、キャンプという実験は徐々に失望と変わっていったのでした。また、ドラッグの問題も深刻化し、命を落とすものすら出ていたといいます。
キャンプなどは成功とはなりませんでしたが、一方で、ライクらが1968年に編み出したのが、映画の中のアンナ達にような、こうしたヒッピーの精神にもとづいた、「コレクティブ」という共同生活方式であり、皆でシェアし合い、身分や性別からくる序列から離れて新しい価値観で暮らすという実験的なライフスタイルを始めました。彼らは時にパートナーまでシェアし、それはややこしく複雑な問題を生みました。そのあたりがまさに映画の題材となっていました。私は机上で学んでイメージしていたことを視覚的に見せてくれており、その点もこの映画の興味深い面でもありました。このコレクティブは次第に定着していき、現在のシェアハウスの原型となっています。
 コレクティブは平和的でしたが、一方、住居不足を解決する方法として、「スクォッター運動」も都市部のあちこちで始まりました。廃墟や空き家となっているところに勝手に住み着くというそのやり方は、しばしば警察が出動し、暴力的な対立を引き起こします。主に学生達から始まったスクォッターは、次第に若い失業者や麻薬常習者や若いお金のない子連れの夫婦などが主となり、1971年にはコペンハーゲンで2千人が占拠していました。彼らはほとんどが最終的に警察や当局によって追い払われましたが、今もコペンハーゲンの中心地に存在する「クリスチャニア」はこうしたスクォッター運動の名残りです。1971年の秋に6名の占拠から始まり、あっという間に400-500人が住み着き、彼らはキャンプの運営などから経験を積んでいたため、素早い組織化を図り、居住の権利を勝ち取ったという経緯があり、デンマークのヒッピー文化の若者達の精神を、今に引き継ぐエリアとなっています。興味のある方はぜひ一度行かれると面白いと思います。

 以上、映画『コミューン』の背景となった当時のデンマークを少し切り取ってみました。学生やアナーキー過ぎたヒッピーの若者達の目指したものがすべて実現したわけではありませんが、大学は権威主義から平等な関係になり、女性の社会進出と共に社会全体も男女は対等な存在となり(デンマークの女性運動についてはまたいつか書いてみたいと思います)、人々は皆平等であるべきという価値観へと変わります。当時、既存社会に疑問を持った若者達の考え方を大人達が合理的だと承認し、新しい価値観を受け入れたことによって、デンマークは大きく変革しました。それは西ヨーロッパ全体の動きに呼応したこともあったでしょう。ただ、他国では若者達が暴力的になったり、暴力によって抑圧されたりした中で、デンマークでは衝撃的な対立はなく、すんなり転換していった点が特徴的で面白いなと思います。





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