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東畑開人「居るのはつらいよ」

本書は「ケアとセラピーについての覚書」というサブタイトルもあるように、ケアとは何か、セラピーとは何が違うのか、について学術的に掘り下げよう、というエッセイ(フィクション)です。

ケアについてはこれまで私も何度か取り上げてきました。たとえば以下の伊予柑日記は簡潔にまとまっていて分かりやすいです。

特に男性はケアをしないし、ケアを受け入れにくい、そのせいで生きにくくなっている、みたいな話もありました。

ケアが大事だというのはなんとなく分かるのですが、では何をすればいいのかと考えていくと、どうしても「現状の問題を解決する」というセラピーの側に進んでしまいます。実際に「ヘルスケア」みたいなのはすごくセラピー的な発想です。

前置きが長くなってしまいましたが、本書ではそういったケアとセラピーの関係性みたいなのを学術的に考えた結果、ケアというのが「物語」の中でしか表現し得ないということでエッセイ風のとても面白い内容に仕上がっております。

ケアとセラピーの定義

ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。

セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、介入し、自立を目指す。すると、人は非日常のなかで葛藤し、そして成長する。

P276

これが本書の結論になります。ネタバレですね。これをすんなり理解できるようなストーリーが本書の醍醐味になります。結論だけを得て満足してはいけません。

そうなのだ。ケアとは親密な関係を生きることであり、依存労働はつながり抜きにはなしえない。
心のケアとは脆弱な人と一緒にいて、相手を傷つけないことだ、と僕は思う。だけど、それはたやすいことではない。そのときケアする人自身がじつは傷つきやすく、脆弱な状態に置かれるからだ。依存労働者は、依存されることに伴うさまざまな難しさを飲み込まないといけない。

P116~117

ケアをしていると、ケアに飲み込まれてしまいます。ミイラ取りはミイラになるし、メンヘラと過ごしていると自分もメンヘラ化します。

傷つけないって、本当に難しいんです。だって、ニーズは多種多様ですから。泣いている人がいたとして、声をかけてあげるのがケアになる場合もあるし、そっとしておいてあげるのがケアになる場合もある。ケアとは、そのときどきのニーズに応えることで、相手を傷つけないことです。そうやって、彼らの依存を引き受けることがケアです。

P272~273

実際の私たちは、そんなにケアができません。ついつい口を出してしまいます。「あなたがこう変わればいいんだよ。あなたは怖がっているけど、大丈夫だから、一緒にチャレンジしようよ」と声をかけたくなります。だって相手はどうみても間違っていて、それで弱っているのですから、更生させたいじゃないですか。みんな、セラピーがしたくなるのです。それが正しく思えるのです。

傷ついてしまったりする自分と向き合うのがセラピーです。傷つけないのではなく、そこにある傷つきに触れるんです。
セラピーでは「ニーズを満たすこと」ではなく、その「ニーズを変更すること」が目指されます。
ここには、抜きがたく「自立」の思想があります。ケアが依存を原理としているとするなら、セラピーは自立を原理としています。だから、ケアでは変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されます。

P275~276

あなたはどちらの方がいいと思いますか? ケアで相手を依存させるより、セラピーで自立してもらった方がいいと思いませんか? そう思う人に、そうじゃないと伝えるのはとても難しい。だから本書は、エッセイになっているのです。読まないと分からないのです。

ケアのコミュニティ

デイケアはコミュニティだ。しかも、究極のコミュニティだ。というのも、それは「いる」ために「いる」ことを目指すコミュニティであり、コミュニティであるためにコミュニティであろうとするコミュニティだからだ。

P220

本書の舞台はデイケアという施設ですが、デイケアにはミッションがありません。ただそこに集まって、いるだけ。なんとなく人が集まって、なんとなくそこにいる。

もしかしたら、つらい社会から逃げ出すための、避難所みたいな場所なのかもしれません。本書では「アジール」と呼ばれています。もともとは神殿とか寺院とか、神仏の力が強いところで、どんな罪人でも許してもらえる、みたいなのがアジールでした。

おもしろいのは、そういう神仏の力が失われた現代にあっても、アジールが消えることがなかったことだ。「いる」ためには、責められず、傷つけられず、気を緩ますことのできる場所が必要だから、僕らは今もアジールを持っているし、つくり続けている。

P287

あなたのまわりにも、そういうコミュニティがあるのではないでしょうか? 成果とか納期とか気にせず、どうでもいい話をできる仲間たちが、いるのではないでしょうか。

重要なのは「内輪ネタ」なのだ。それはコミュニティの内部で生じて、コミュニティの内側で作用する。良きコミュニティには内輪ネタが存在する。誰しもが人を笑わせることができて、誰しもが笑えて、そして外部にはまったく波及していかないのが内輪ネタだ。

P224

内輪ネタを話せる、共通の仲間意識となるものがある、そういうコミュニティが今の時代でもアジールとして機能していると思われます。

アジールにいるのはつらい?

アジールの運営には気をつけなければいけないポイントがあります。アジールにとって大事なのは、どうでもいいことです。ミッションがないこと。目的もなく集まっていることです。

でも私たちは、つい何か目標を持ちたくなります。遠くへ行くなら、みんなで行きたくなります。強いコミュニティになって、成功して、有名になって、人気になりたくなります。

でも、ミッションを達成するために活動するのは大変なことです。そこには、ただ「いる」だけでは済まされなくなります。何かを「する」必要があるし、「する」ことがない人は、そこに「いる」ことも許されなくなります。だから「居るのはつらい」となってしまうのです。

ケアとセラピーの比較のところで、セラピーの方がいいと思った人は、潜在的に「何かすることが必要だ」と思っているはずです。そういう人は、アジールの中でも「する」ことをさがして、「いる」だけでは落ち着かなくなります。だから「居るのはつらい」となってしまうのです。

アジールは、予算がつくとアサイラムになる。会計はアジールを殺す。その光は、アジールの薄暗さを隈なく照らして、アサイラムにしてしまう。逃げ込んだ罪人を庇護するアジールに、効率性とエビデンスが求められるとき、そこは罪人を画一的に管理するアサイラムに変わるのだ。

P325

アサイラムというのは、刑務所とか収容所、みたいな意味だそうです。アジールとアサイラムは紙一重の存在で、人々を救ってくれるはずのアジールは、少し気を許すとあっという間のアサイラムになってしまうのだそうです。以下の例が、すごく分かりやすかったです。

実際、温泉旅館を思い浮かべてみるとそれがよくわかる。温泉旅館は間違いなくアジールだ。俗世で疲れた僕らは、温泉へと避難する。チェックインを済ませると何が起こるかというと、僕らはみんなと同じ浴衣に着替えて、部屋番号を渡される。行われていることも画一的だ。結局のところ、温泉に入り、宴会場で皆と同じものを食べて、飲んで、寝る。温泉旅館は刑務所と同じやり方で運用されている。

P304

だから、私たちは、今はよいアジールだと思っているコミュニティも、ちょっと気を抜くと、何か「する」を追い求めて、急にいづらい場所になってしまうかもしれません。

お金の話はしない、などのルールを設けるのは、とても有効なことだなぁ、と思ったりしました。

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