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日本人の意志決定(日本辺境論より)

前回紹介した日本辺境論の中から、今回は政治の観点から感じたことを紹介していきます。前回の議論は以下をご参照ください。

日本という国は、中国やヨーロッパ諸国とは違って自分たちは常に世界の中心ではなく端っこの存在であり、劣っていて、中心に向かって追いつけ!追い越せ!と常に変化し続けなければいけないと思っている、その主体性のなさこそが日本なのだ、ということを筆者は言っています。

幕末の日本人に要求されたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、それに対して、明治末年の日本人に要求されたのは「世界標準を追い抜くこと」であった。
日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。そのようなことをしたら日本人はもう日本人ではなくなってしまうとでも言うかのように。
「諸国の範となるような国」はもう日本とは呼べないということを私たちが知っているからです。そんなのはもう日本じゃない。

P88~90

日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」である。
私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的にその決定が誤りであったことがわかった場合にも、「とても反対できる空気ではなかった」という言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳は「それではしかたがない」と通ってしまう。

P44~45

私たちは変化する。けれども、変化の仕方は変化しない。そういう定型に呪縛されている。どうして、そんな呪いを自分にかけたのか。理由はそれほど複雑なものではありません。それは外部から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保持するためにはそういう手だてしかなかったからです。

P29

まさに、それな。私は心の底から日本人なので、激しく同意します。会社でもそう。競合他社がこんな商品を出してるのに、どうしてうちは出来ていないんだ、と怒られる。でも自分たちから新しいコンセプトは出さない。そんなことをしたら、日本じゃないんだ。

何か大事なことを決める会議も、論点を明確にするより、回数をこなしてたくさんの偉い人が出席して、いっぱい熟慮した雰囲気を出す方が重要だったりする。特に新しいことには慎重になる。でも、競合他社がやってるならすごいスピードで決断してキャッチアップしはじめる。

それは、それが日本のアイデンティティなのだと筆者は言う。そうなのかもしれない。だから外資系の社長がカリスマ性をもってビジョンを示したりするのを見ると、すごいなぁ、どうして弊社はあんな風にならないんだろう、って思うし、あれを真似しましょう、って思う。まさに日本。

日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる点にあります。

P221

「私はつねに正しい政策判断をすることのできる人間であり、あなたはそうではない」という立場の差を構築することが、政策そのものの吟味よりも優先する。「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。そして、「正しいことを言いそうな人間」とそうでない人間の違いはどうやって見分けるのかについては客観的基準がない。

P218~219

外来の知見を「正系」に掲げ、地場の現実を見下す。これが日本において反復されてきた思想状況です。日本語では、いつだって「外来の高尚な理論=男性語」と「地場のベタな生活言語=女性語」の二項対立が反復される。そして、その相克のダイナミズムのうちに、私たちの言語が豊穣化する契機もまた存在する。

P246~247

『土佐日記』で紀貫之は「をんな」の真似をして女性語を使ってみたのではありません。「をんな」の真似をして女性語を使って「をとこ」の真似をして日記を書いたのです。二つフェイクが入っている。生活言語を使わないはずの人間が、あえて生活言語を使って、外来の公用語で書くべき種類のテクストを書く。それが日本語の正しいとは言わないまでも、もっとも効果的な運用法になった。とりあえず、そういう言葉づかいをしないと私たちの社会では言葉はうまく人に届かないということが確かめられた。

P237

この辺の考え方が、日本社会での政治・交渉とかを大きく左右することは明白です。誠実に難しい公約を掲げる政治家より、バカでも分かる単純なことを繰り返す偉そうな政治家の方が圧倒的に大衆ウケする。そういう雰囲気が醸成されているのです。

もしあなたの所属する群れで、何か理不尽だなぁと感じることがあったら、こうした日本的なふるまいを思い出してみてください。ADHDの強い人ほどこうした「雰囲気」による意思決定は理解できないと思います。でも、それが日本の多数派なんです。

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