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内田樹「日本辺境論」

娘の塾のテキストで出てきた文章があまりにも良かったので、出展の本を購入して読んでいますが、あまりにも良い本で感動です。私は、辺境の国、日本に生まれ育った日本人なんだなあ、と実感しました。

今回紹介するのは、教育の観点です。

「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まります。「学び」はそこからしか始まりません。私たちはこれから学ぶことの意味や有用性を、学び始める時点では言い表すことができない。それを言い表す語彙や価値観をまだ知らない。その「まだ知らない」ということがそれを学ばなければならない当の理由なのです。

P196~197

これを小5が一生懸命読んでるわけですが、その意味が分かってるのかは疑問です。しかし、分からないからこそ学ばなければいけない。

「学ぶ力」というのは、あるいは「学ぶ意欲」というのは、「これを勉強すると、こういう『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。その点で、私たちの国の教育行政官や教育論者のほとんどは深刻な勘違いを犯しています。子どもたちに、「学ぶと得られるいいこと」を、学びに先立って一覧的に開示することで学びへのインセンティブが高まるだろうと彼らの多くは考えていますが、人間というのはそんな単純なものではありません。

P197

これはショッキングな指摘でした。私自身、どうして学ぶのかを十分娘に示せていないことがいけない、と感じていましたから。以前も、いかに勉強の意義を伝えたらいいか、みたいなことを考えたりしていました。

しかし、このnoteでも言及しているように、危機に瀕していない、困っていない状態で学ぶ意欲は湧かないものです。同じようなことは本の中でも言われていました。やはり我が子を千尋の谷に落とすことは大事なんだなぁ、と思わざるを得ません。歴史は正しい。

もう一点、学びに関して非常に目から鱗だった指摘がこちら。

知の可能性の開花は子どもの主観の側からは「自分が真理だと思っていたもの」の喪失として経験される。この喪失の不快が乗り越えられるためには、今それを失うことを通じて、将来的にそれ以上のものを回復することについての先駆的確信がなければ済まされない。

P201~202

学びというのは、不安なことなのです。自分のアイデンティティが崩されることなのです。それを受け入れる素地があるのは、学ぶことが将来役に立つと先駆的に分かっている人だけだというのです。

そういえば、正統的周辺参加でも、学びとはアイデンティティの確立だと言っていました。アイデンティティが確立されるということは、以前のアイデンティティが喪失するというわけですから、それは不安なことかもしれないと思いました。

これは子どもに限った話ではなく、むしろ大人の方が、自分のアイデンティティを守るために新しいことを学びたがらない、保守的で変わろうとしない傾向が強いのではないかと思いました。

コミュニティの古参となれば学ぶ必要がない、新しい学びによって自らのアイデンティティを喪失する必要がない。しかし、そうやって成長を止めてしまった古参は老害となります。そうではない、学びは必要だと先駆的に確信している人は自然と越境して新しい周辺に参加していく。

なんか、いろんな知識が、線で繋がっていく気がしました。

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