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蘇我蝦夷(毛人)と刀自古郎女

冒頭の絵は山岸凉子版の厩戸皇子です。
今回は蘇我大臣馬子の家督を継いだ蝦夷(あるいは毛人)と妹の刀自古郎女について考えます。

蝦夷も毛人も読みは「えみし」です。刀自古郎女は「とじこのいらつめ」と読みます。

「日出ずる処の天子」で厩戸皇子と同世代として描かれたため、そのように信じている人が多いようですが、日本書紀の記事から考察すると586年頃に生まれたと推測されます。
厩戸皇子が574年生まれとされており、蘇我氏と物部氏の激突した「丁未の乱」が587年です。

「日出ずる処の天子」では蘇我馬子の長子とされる善徳が出て来ておらず、世代的には善徳の方が山岸凉子版の毛人に近い印象です。
ただ、池田理代子版の「聖徳太子」を読んだ人なら知っているように、善徳は出家しちゃうんですよね~・・・・・・

毛人と刀自古1

上記のような愛憎を描くためには毛人と刀自古郎女の年齢が近い必要があったということでしょうか。

池田理代子版「聖徳太子」にしても毛人を「丁未の乱」に少年狙撃兵みたいにして登場させています。
でも、日本書記から推測される毛人はまだ一歳ですから、これも通説を踏まえている訳ではありません。
私は池田版「聖徳太子」をまだ読破していないので断言は出来ないのですが、入鹿と山背大兄皇子の運命を劇的な宿縁にするための設定なのではないかと推測しています。

刀自古郎女は毛人の妹とされ、後の厩戸皇子夫人です(山背大兄皇子のお母さん)。
これも上記の年齢から考えると。崇峻天皇の妃になった馬子の娘・河上郎女や、物部の里で強姦された馬子の娘とも年齢が合わない訳です・・・・・・

善徳は596年に法興寺の寺司になっていますから、その前に出家していそうです。毛人の誕生後に出家したと考えると十年ほど修業期間があります。
毛人誕生後、早々に出家したと考えるのが良いのではないか、と思います。
大事な蘇我家の嫡男を出家させてしまうのは?

私の個人的推測ですが、善徳と毛人では母親が違うと考えています。
新しい妻の子供に家督を継がせたい馬子が、仏教興隆の名分で善徳を出家させて跡目争いの芽を摘んでおいた・・・・・・

蘇我馬子ならあり得るかも。
馬子は日本書紀で
「刀をつけて誄(しのびごと=死者を慕い、その霊にむかってことばを述べる)をすると『まるで猟箭(ししや=猪や鹿を射るための大きな矢)で射られた雀のようだ』」と嘲笑われるし、
崇峻天皇が「この猪の頭を斬るように、いつかはいやな奴を斬ってやりたいものだ」と言うのを聞いて「嫌な奴とは自分のことだ」とピンと来ます。
朝臣にあっては最大の実力者なのに、容姿のことで散々な言われようなのは、類推するに背が小さくて猪首、つまりはずんぐりとした小男だったのではないでしょうか?
ちなみに山岸版「日出ずる処の天子」と池田版「聖徳太子」では下のような描写(左が池田理代子版で右が山岸凉子版)がされていますが・・・・・ちょっと酷くないですかぁ?w
山岸版はまだ愛嬌ありますが、池田版は・・・・これじゃあ悪人みたいで・・・・

馬子

池田理代子版は著者自身は否定してるようですが、大きく「日出ずる処の天子」から影響を受けていますから・・・・・

「日出ずる処の天子」は一度読めば、どうしてもその影響から抜け出すことが出来ないほど、大きな作品です。

私が今創作しているのは、それと喧嘩せずに独自の人物像を作ろうとしているので、日本書紀と違う設定のところが「日出ずる処の天子」や「聖徳太子」に多ければ多いほど嬉しかったりします。

だからって順調に書けているとは限らないのですが(;゚ロ゚)

追記です。
記事で話題にしている物語は、現在は「カクヨム」連載中です。
興味のある方は是非m(__)m

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