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【小説こぼれ噺】安宅氏の謎

 第三服、順調に執筆中ですが、調べ物をしているときに、あれ?っと言うことがありまして、「小説こぼれ噺」としてまとめをすることにしました。

 三好長慶の弟は、三好之虎ゆきとら(実休)、安宅冬康、十河一存かずまさ、野口冬長の四人です。この内、野口冬長は若くして亡くなったため、あまり知られていません。

 之虎と冬康は同年生まれの月違いっぽいので異母兄弟と思われます。

 また、一存と冬長も同年生まれの可能性があり、これも異母兄弟の可能性があります。

 で、冬康の養父は安宅治興。系譜にはないんですよね。

 ちなみに冬康と冬長は足利義維よしつなが天文三年に改名してからの名・義冬からの偏諱と考えられます。

安宅八家

 調べていきますと以下のような人物がいることがわかります。

湊里安宅氏

 安宅秀益 安宅秀興の子。
 二郎三郎。駿河守。1528年、三好元長の家臣・蟇浦ひきのうら常利、島田時儀勢に攻められ討死。

 安宅冬一 安宅秀益の子
 1581年、湊里みなとさと館の戦いで羽柴秀長に攻められ降伏。

・猪鼻安宅氏

 安宅冬俊 志摩守

 1558年、安宅信康に攻められ降伏

・白巣安宅氏

 安宅冬秀 九郎左衛門

 1581年、羽柴秀長に攻められ討死。

岩屋安宅氏

 安宅宗景(1558〜1570 ?)

 1576年、第一次木津川口の戦いで毛利水軍と戦い敗退。

炬口安宅氏

 安宅英益 二郎三郎。

 1528年、炬口たけのぐち城の戦いで島田時儀に敗れ、安宅冬宗の下に落ち延びた。秀益と同一人物か?

安乎安宅氏

 安宅隼人

 安乎城主。

 この他に炬口城と洲本城を築いた安宅監物けんもつ秀興のあとを駿河守吉安、その後を秀益が城主となったという話もあります。

 安宅秀興

 1510年洲本城を築城。1519年、三好元長とともに細川淡州家当主・細川尚春を謀殺。

 とあります。
 また、秀興を直俊(実俊の父)の子と紹介している文章もありました。とすると、嫡流の太郎家に対し、秀興の次郎家という流れが濃厚になります。

 これは仮説ですが、大永八年に秀興が亡くなり、吉安が炬口城から洲本城に移り、家督。吉安が改名して治興になったか。

 秀益は炬口城の城主となったが、治興に冬康の養子入りが決まると、これを不服として湊里安宅氏の安宅英益と語らって、治興を攻める談合をしていたが、元長配下の蟇浦常利がこれを聞きつけ、島田時儀と共に秀益を攻め、秀益敗死。湊里英益は安宅冬宗を頼った……という流れならすんなりするんですよね(別人とするなら)。

 安宅冬宗ってのは誰よ?という疑問は残るのですが、安宅宗景の父ではないかと。宗が通字ですし。

 おそらく湊里安宅氏と炬口安宅氏は同族で、洲本に進出した安宅秀興の系統と考えられます。秀益の仮名が「次郎三郎」なので、吉安が又次郎(次郎次郎)か次郎太郎なら分かりやすいのですけどねぇ。

 また、この後出てくる安宅の嫡流は由良を本城とする一族で、八幡山城・勝山城と進出しており、由良安宅氏と洲本安宅氏が八家の中で最有力であったのではないか?と考えます。

 この場合、治興(吉安か?)が三好氏から養子を取ったのは、庶流による惣領の簒奪――つまり、下剋上であったのではないか?と仮説を立ててみます。

安宅一乱記

 ここに安宅一乱記という本があります。軍記物なので鵜呑みには出来ないのですが、大まかな話としては信憑性はあります。

 大永六年(1526)安宅実俊が病死。

 嫡子安定が幼いため、実俊の弟・定俊が安定が成人するまでということで家督。

 享禄三年(1530)、安定十五歳(つまり永正十三年(1516)生)となり、安定の付家老が定俊に安定家督の話を持ち出すと定俊が家老を殺害。

 怒った安定は八幡山城に攻め寄せるも敗走。定俊に逆撃され、紀州周参見すさみへ落ち延びます。

 母の実家である那智山実方院に身を隠しつつ、譜代の家臣や阿波三好氏の後援を取り付けて十一月四日、八幡山城を包囲、城方不利となり兵は勝山城へ逃走。定俊自刃。

 勝山城に撚った定俊の嫡子・安次との抗争の最中、那智山実方院が堀内氏虎によって攻められ、降伏。

 安定や安次の勢力より、三好氏などの外部勢力のほうが強くなり、最終的には三好氏の麾下に入ることになります。

 由良城を拠点に八幡山・勝山に進出した嫡流太郎家と、湊里から炬口・洲本に進出した次郎家、それ以外に白巣・岩屋・猪鼻・安乎と淡路に勢力を伸ばした安宅氏でありますが、太郎家の内訌によって、紀州の地をすべて失います。

安宅系譜

 系譜では、実俊の養子として冬康を配しますが、これは由良安宅氏ではなく、洲本安宅氏の養子となったと考える方がしっくり来ますので、ここは秀興の子・吉安(治興)の養子と想定します。

 加また、湊里英益が安宅秀益と別人ならば、冬宗と親戚だったのでしょう。

 こうして勢力の衰えた安宅氏嫡流ですが、冬康の麾下となり、嫡流は安定の弟光定の系統に移ります。

 このことからも冬康は洲本安宅氏、すなわち安宅秀興の系統を家督して安宅氏嫡流や庶流の家々を家臣化していったと考えられます。

 ちなみに実俊は大炊介なので、監物秀興・駿河守吉安とは系統が違うと思われます。安宅氏は嫡流を中心にまとまっていた氏族ではなく、それぞれが細川淡州家に仕えていたと見るべきでしょう。

 嫡流家と庶流家の争いが細川氏の内訌と細川氏と三好氏の相克によって勢力図が変わっていったのではないでしょうか。

 この辺りは諱の通字の問題もあるので、一概になんとも言えないところです。三好氏は当主が「長」を通字としていて、安宅氏の太郎家は「俊」を通字としています。

 秀興は誰から秀の字を貰ったのか、それがこの謎を解く鍵かも?

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