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鎌倉街道 上道を走る 鎌倉~町田 前編

 2月上に足を痛めてから、約1か月ぶりに長距離を走りました。ところどころ違和感がありましたが、様子を見ながらペースを調整したので、故障が再発することはありませんでした。気候もだんだん良くなるので、徐々に復活していきたいと思います。

 今回は、古道の代名詞であり、現在も各地に残る鎌倉街道に踏み出します。これまで探訪した江戸時代の街道とは違い、明治の地図からではルートを見つけらないので文献を頼りにルートを設定しました。それこそ諸説ありますので、一例としてとらえていただければ幸いです。

 鎌倉街道は、江戸時代の街道のように幕府が整備したものではなく、鎌倉と各地を行き来するときに使われた道を、のちの時代に「鎌倉街道」と呼んだのが由来だそうです。よって、決まった街道があったわけでは無く、そのことが各地に「鎌倉街道」と呼ばれる道が点在する理由でもあるようです。
 とは言え、先人の研究により有力なルートとして、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)、山ノ道などがあり、今回は上道を、鎌倉から町田まで進みます。

 上道の道沿いには、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも描かれていた鎌倉幕府成立時の主要な御家人(畠山、比企、梶原など)の在所が点在しており、いざ鎌倉となると、この道を行き来きしていたと思われます。
 さらに、鎌倉時代の末期には、新田義貞が反旗を翻しこの道筋を進み、最終的に鎌倉幕府を倒した史実が知られています。まさに時代を動かした道だったと言ってもいいかと思います。そんなことを思いながら走りました。

 なお、参考とした文献は下記になります。
・荻窪圭 「鎌倉街道伝承を歩く」山川出版社
・芳賀善次郎 「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」さきたま出版会  
 前者は、2022年出版され最新情報が盛り込まれているので、ガイド本としては最適です。後者は、詳細なルートや伝承が記載された鎌倉街道のバイブル的な本ですが、1978年の出版されたものなので、当時から現代までの変遷も味わえるのでお勧めです。


注)長くなったので前編と後編に分けます。地図は町田までですが、記事は俣野までとして、後編は次回アップします。


鎌倉~俣野 16.7㎞

 鎌倉から化粧坂を抜けて、境川の左岸を北上します。

鎌倉~俣野

 鎌倉の中心部、鶴岡八幡宮を9時前にスタート。この時間は未だ人は少ない。

鶴岡八幡宮

 化粧坂に向かう坂の途中、住宅とやぐら跡が融合している風景が、鎌倉らしい。

化粧坂下

 今の化粧坂は荒れているが、当時は馬も通れる整備された道だったのだろう。

化粧坂

 化粧坂を登ると、平場があり、源氏山公園の一角になっている。案内にもあるように、当時は遊郭もあり、行き交う人で栄えていたようだ。

化粧坂案内

 近くに、鎌倉時代に討幕を謀ったとして処刑された日野俊基の墓とされる宝篋印塔と、縁結びのパワースポットとして人気の葛原岡神社がある。

葛原岡付近

 住宅地に入り、宅地化により古道は失われているが風景が開ける。
 この辺りの地名は「梶原」であり、鎌倉殿では早々に粛清された梶原景時の梶原氏ゆかりの地だ。

梶原付近

 スポーツ広場の一角にある小山に残る泣塔と呼ばれる宝篋印塔を、フェンス越しに眺める。当時の街道は、この小山の下を通っていたと思われる。
 新田義貞進軍時の洲崎の合戦の戦死者を供養するために建てられたと考えられているとのこと。泣塔と呼ばれている理由ははっきりしないが、別の場所に移したときに元の場所に戻りたいとすすり泣いた伝承などがあるようだ。

泣塔

 柏尾川を渡り、神戸製鋼の脇を通って旗立山の麓の山道に入ると、地元の方が建てられた「鎌倉古道(上の道)」の新しい石碑があった。このように地元の伝承を活かして、文化遺産としてアピールすることが広まればいいと思う。

旗立山麓・鎌倉古道の碑

 村岡城址は、坂東八平氏の祖となる平安時代中期の武将、村岡五郎(平良文)が晩年住んだと伝わる場所である。千葉氏、上総氏、三浦氏、梶原氏、畠山氏など、鎌倉幕府成立に寄与した有力御家人は、この子孫となる。
 この街道筋に、鎌倉幕府成立に関わる人物ゆかりの地が集まるのは偶然だろうか。

村岡城址

 渡内、柄沢の住宅地を過ぎて、畑が広がる郊外に入る。なかなかの急坂を登る。

影取町

 坂を登った先は、旧東海道の鉄砲宿のバス停があった。以前、東海道を走ったときに通ったところだ。

旧東海道・鉄砲宿

 現在の東海道(国道1号線)も横切り、東俣野に入る。古道の雰囲気が残っている。芳賀善次郎の本の時代は、未舗装路だったようだ。

東俣野付近

 境川を左手に見る高台を北上する。川沿いを古道は進むが、洪水を避けるため高台を通るというセオリー通りだ。

境川

 八坂神社と近くの龍長院一帯は、俣野景久のゆかりの地である。坂東八平氏の流れをくむ武将だが、兄の大庭景親と共に平氏方について、最終的に討ち死にする。

俣野・八坂神社

 道沿いにあった存在感のある庚申塔。

俣野町・庚申塔


 史実、伝承など、いろいろ書きたいことがあふれ、長文になってしまったので、今回はここまでとします。引き続き、俣野から町田までを後編としてアップしますので読んでいただければ幸いです。


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