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バガヴァッド・ギーターをヨーガ哲学とは言ってほしくない

 たまにヨガスタジオとかで「ヨガ哲学講座」と称してバガヴァッド・ギーターの講座が行われることがありますが、私にはとーっても違和感があります。どうして印度哲学とかヴェーダーンタ哲学講座、あるいはインド文化を知るための文芸作品講座と言わないのでしょう?
 バガヴァッド・ギーターはインドでは योगशास्त्र ヨーガ・シャーストラ (ヨーガ教典)と呼ばれるもので、それをヨーガ哲学 योगदर्शन ヨーガ・ダルシャナといわれると、おいおい待ってくれよと言いたくなるのです。人間や世界、宇宙の本質を論理的な思考や原理によって解明しようとする学問のことを哲学だとすると、その定義に一致しますかね?
 ギーターは通常、ヴェーダーンタ哲学の聖典として説明されることが多いと感じます。本来はヴェーダーンタの聖典(例えばウパニシャッド)ではなく原始バーガヴァタ教の聖典ですが、基本的にヴェーダーンタ思想(特にシャンカラの不二一元論)に基づいた説明がなされることが多いですね。インド思想の牽引役がスワミと呼ばれる僧侶的な人々であり、その保守本流がヴェーダーンタなので仕方がないことかもしれません。また、別の思想体系ででも説明可能ですがヨーガ学派の聖典としては基本的に使用しません。(クリシュナと一体化という梵我一如的な一元論思想は、ヨーガ・スートラのプルシャ・プラクリティという二元論と相入れません)
 6派哲学でヴェーダーンタ学派+ミーマーンサー学派のグループとサーンキャ学派+ヨーガ学派ではカテゴリーが違いますしね。
 ヨーガ哲学というならば、ヨーガ学派の聖典『ヨーガ・スートラ』に基づく話をすべきではないのでしょうか?
 ヨーガ・スートラといえばほとんどの人が八支則を思い浮かべることでしょう。八支則の最初に記述されている(つまり一番大切な教えともいえる)『अहिंसाahiṃsā 非暴力』の教えがあります。直接行う暴力だけでなく、言葉による暴力や他人に行わせることも、他人が行うことを見過ごすことも、心に思い浮かべることもしてはならぬとされているのです。
 重要なのは『漁師なので魚だけは除く』とか『農民なので土を耕す時にミミズは不可避だからOK』とか、『蚊に刺された時はころしてもOK』とか『Gだけは例外』とか条件付けた非暴力ではない。いかなる条件下であっても守るべき誓い(ヴラタ)。この様な[例外を含めない絶対的な]ヴラタは『偉大なる』という形容詞マハー(摩訶)を付けてマハーヴラタと言われています。
 話をギーターに戻すと、ギーターの主題とは何か?「殺せ!、敵を殺すのはそなたの義務である」ですね。主人公アルジュナやクリシュナに始まり登場人物のほとんど(ほぼ全員)は戦士階級(क्षत्रियKṣatriya クシャトリヤ)です。王様もクシャトリヤです。当時の常識として戦士は他国からの侵略から国を守るだけでなく、積極的に侵略戦争を行い、領地を増やすことが求められていました。ちなみに王家の男子は子孫繁栄のために大勢の嫁を持つことが推奨されていました(日本や中国でも大奥や後宮があったのと同じ事です)面白いことに、ここまでの話でヨーガスートラの八支則のヤマ(禁戒)のうちの非暴力不偸盗(他国の領土を欲しがる)、禁欲に反しています。出家修行者のために書かれたヨーガ・スートラの思想とは相容れない事が前提のお話なのです。
 ヨーガ哲学としてギーターを紹介している人の説明で、スートラの非暴力と相反する、『敵を殺せ!』という殺人の肯定について納得できる説明を聞いたことがありません。
 逆にインド人にとっては何が矛盾しているのか理解しがたいようです。彼らにとってのギーターはヒンドゥ教の宗教実践の書、つまり“生き方を指し示す聖典”という位置付けの様です。
 日本人は宗教アレルギー症候群に罹患している人が多いようで、宗教の話になると急に意識を逸らそうとされることがあるのですが、そのわりにギーターを読んでもアレルギーを起こさないのが不思議です。イスラム原理主義のテロリストによる破壊活動(バーミヤンの大仏破壊とか)十字軍による略奪やら破壊活動やら虐殺の歴史は神の名の下に行われたものでした。神の名の下に他者を害する思想は同じです。
 突き詰めると『己の信ずる正義のためなら徹底的に戦う!』という教えが砂漠の宗教には有りますが、それはギーターの教えと重なる様に見えませんか?
 「殺せ!、敵を殺すのはそなたの義務である」この教えを子供の頃から芝居やら映画やらテレビやらで日常的に触れているので、それは骨の髄まで染み込んでいるのでしょう。
 『相手が不条理で非道な行いで攻めてきても戦ってはならない』とする九条信者とは真逆の国民性を作っている聖典なのです。
 ついでの話ですが、皆さんの好きな『シャーンティ』という言葉、コレはサンスクリットではशान्तिः [śāntiḥ] と書きます。シャーンティのシャは蝗(シャラバ:शलभः [śalabhḥ])のシャ(sの上にダッシュが付いたś)と同じ、シャーンティって単純な平和(peace)というイメージかもしれませんが、サンスクリットから単語の意味を考えると、蝗が何もかも食べ尽くして動くものの全く無い荒涼とした沈けさです。そう、まるで核戦争によって滅び去った地球のように。インド人にとってギーターの戦いとは、そのように滅び去ってでも行うべきダルマの教えなのです。ヨーガ・スートラとは真逆の教えですよね?
 繰り返しますが、文学作品や印度哲学、ヒンドゥ教の宗教実践の聖典としてなら否定することはありません。あくまでも『ヨーガ哲学』とした場合の違和感の話です。

 ギーターを含む叙事詩の『マハーバーラタ』からしてツッコミどころ満載なのでついでに書いておきます。(インド人の思考基準が解るかもしれません)
 クル族の王プラティーパの王子『シャンタヌ』、そもそも最初のエピソードに出てくるこのシャンタヌからしておかしくないですか?
 この人の嫁って殺人を繰り返す女なのですよ。シャンタヌとの間に産まれたばかりの赤子を、その嫁が殺すのです。(シャンタヌは産まれたばかりの赤子を抱いて出かける嫁を不審に思い、そっと後を付けていったのです。するとなんという事でしょう!嫁はニコニコしながら赤子をガンジス河に沈めてしまうのです)嫁との約束で『決して嫁を咎めない』と誓っているのだからシャンタヌは何も言わない。何も言わなくても我が子を殺すような女とよく一緒に暮らせますね。
 きっとシャンタヌは嫁に自分が殺されるようなことがあっても嫁を咎めないんでしょう。それどころかその後も7人の子供を作るのですが、全員(というか、最初の子供を含めて7人まで)ガンジス河に沈めて殺します。最後(8人目)の子供が殺されそうになって初めて嫁を咎めるのです、よくそんな女と子作りできるものだと不思議でなりません。繊細な日本人なら最初の子供が殺された段階でEDを発症してしまうのではないでしょうか。でなければ第二婦人や第三婦人を娶って赤子殺しの嫁には近づかないと思います。この王様、2人目、3人目と殺し続ける女とどの様な日常生活(夫婦生活)を送っているのでしょう?
 インド人にとってマハーバーラタは、日本人にとっての古事記や日本書紀というよりも、『桃太郎』や『浦島太郎』のような位置付けで、誰もが幼い頃から見たり聞いたりしているみたいですから、どんな時でも勃起するのが王者の勤めとして刷り込まれているのかもしれません。
 さすがに8人目で嫁の子殺しを止めるシャンタヌですが、この時になって嫁の正体が明かされます。なんとガンジス河の化身ガンガー女神だというのです。産まれてきた子供達にも前世からの約束が有った(詳しくはマハーバーラタを参照)んで8人目の子供は女神に連れられてシャンタヌの前から去った。
 後にこの8番目の子供は青年となりシャンタヌの元に戻ることになります。名前はデーヴァヴラタ(神の誓い)並の人間なら名前負けしそうですね。
 さてデーヴァヴラタを手元に置いたシャンタヌですが、やっぱりこのシャンタヌっつーオッサン、色欲の権化のようです。今度は漁師の娘サティヤヴァティーという美女に惚れて嫁に迎えようとします。ところがサティヤヴァティーの父親が「もし娘との間に息子が産まれたら、その息子に王位を継承させること」を結婚の条件にします。当然のことながら長男のデーヴァヴラタは廃嫡となります。ガンガー女神との間に産まれた子供と、最下層カースト(漁師)の娘との間に産まれた息子とを比較すれば、カースト制のインド人であれば上位カーストを選択するのが当たり前だと思っていたのですが、このオッサン、美女とヤリたいばかりに痩せ細るほど悩むのです。その姿を見たデーヴァヴラタは父王の側近から何が有ったかを聞き出します。親孝行なデーヴァヴラタは漁師の元へ行き「自分は王位を継承しない」と宣言する。すると漁師は「あなたに子供が出来たなら、その子供の王位継承権はどうなるか?」と問うた。デーヴァヴラタは「子供を作らぬ」とヴラタ(誓い)を立てた。つまり一生、女性と交わらぬという誓いを立てたわけで、普通の人間には出来ない事をする【恐るべき人】という意味のビーシュマと人々に呼ばれるようになるのです。後のマハーバーラタ戦争で一族の長老として重要な役割を果たすあのビーシュマです。その戦闘力はアルジュナやクリシュナのいるパーンダヴァ陣営全員を合算した戦闘力より高いとされています。バガヴァッド・ギーターを道徳律のように読む人にとってはビーシュマこそが徳の高い見習うべき人だと思うんですよ。
 ちなみにバガヴァッド・ギーターのお家騒動は、この漁師の娘サティヤヴァティーの2人の息子から始まるのです。
 あの時シャンタヌ王が色香に迷わなかったら‥
という人生訓でしょうか?それとも近隣の敵国が謀ったハニートラップの話なのでしょうか?

 女性には男性のような性欲が無いらしい(本当か?)から、男の性欲が招いた不幸な物語の始まりの物語でした。

女性の性欲?

 バーラタ族(インド人)と付き合うには色欲の塊だと思って付き合うべきだという人生訓なんでしょうかね > マハーバーラタ(バガヴァッド・ギーター)

 ギーターを語ろうと思ったのですが、どうしても何故戦争になったのか?
というマハーバーラタ上の前日譚を書いておかなければ話がまとまりません。
 アルジュナ側のパーンダヴァ5兄弟と、その敵対勢力のカウラヴァ100兄弟のいきさつですが、両者は従兄弟同士の関係です。祖母が漁師の娘サティヤヴァティー、シャンタヌ王とサティヤヴァティーの間に産まれた2人の息子はシャンタヌ亡き後、最初に長男が国を治めたものの戦争で殺されました。次いで次男が国王になったのですが、その嫁はビーシュマが他国の王女を強奪してきた(当時のインドでは普通のお祭り的な出来事)という経緯があります。
 強奪した王女は3人ですが、1人は許婚がいるという事で国許に帰されました。さて、この2人の嫁(アンビカーとアンバーリカー)に子供ができる前に(次男の)王様は夭逝してしまった。この段階でシャンタヌの血筋はビーシュマだけになったのですが彼は『女と交わらぬ』というヴラタのために子供は出来ません。王家を継ぐために仙人を呼び出してアンビカーとアンバーリカーという2人の寡婦に子供を作らせることになりました。

 実は漁師の娘だったサティヤヴァティー王母はシャンタヌと結婚する前にパラーシャラという聖者に犯されて聖仙ヴィヤーサを産んでいました。ヴィヤーサはマハーバーラタ(ギーターを含む)の作者と言われています。このヴィヤーサに子作りを依頼することになったのです。聖仙といっても日本の感覚で言えばホームレスの浮浪者、不潔で臭くて恐ろしい姿をしていたのでしょう。王様の寡婦の1人アンビカーの寝室に、この浮浪者が現れた時、アンビカーは恐ろしさのあまり、目を瞑ったまま抱かれたため、産まれてきた子供は盲目でした。コレがカウラヴァの王様ドリタラーシュトラが盲目だった理由です。成長したドリタラーシュトラはガーンダーリーという嫁との間に百人の息子が産まれました(2年間の妊娠期間を経て巨大な肉の塊が産まれたが、ヴィヤーサの指示で百の塊に切り分けて、百人の息子達が産まれた)
 もう1人の寡婦アンバーリカーは目は瞑らなかったものの恐怖で真っ青になったので産まれてきた息子は蒼白でした。そのため、蒼白(パーンドゥ)と名付けられました。パーンドゥにはクンティとマードリーという2人の嫁を迎えました。パーンドゥは狩りの場で、鹿にコスプレして交わっていた仙人を鹿だと思って射殺してしまいました。仙人は「お前も妻と交わったら死ぬぞ」と呪いをかけて死んでいった。(コスプレするなら時と場所を選びましょうね♫)
 この時点でパーンドゥには息子が居ないので世継ぎのためパーンドゥの2人の嫁(第一婦人の)クンティと(第二婦人の)マードリーに別の男の子種を与えることになりました。今度は仙人ではなくて神様を呼び出して子作りするのです。どうやって神様を呼び出して子作りしてもらうのか?その為のマントラが有るのです。そのマントラは(第一婦人の)クンティが知っていました。知っているだけでなく使ったことも有るのです。
 クンティ妃、実はある仙人を接待したらたいそう喜ばれてこのマントラを授かったという経緯があって、試しに太陽神を呼び出してみたら子作りされてしまったという過去が有ったのです。未婚のクンティは生まれてきた子供をどうしたら良いか困り果てて河に流してしまいました。この時の子供が成長してアルジュナの最大のライバルとなるカルナです。閑話休題、クンティはパーンドゥの願いに従いヤマ神(日本の閻魔大王のモデル)と交わりユディシュティラを産み、次いで風神と交わりビーマセーナを産み、さらにインドラ神と交わりアルジュナを産んだのです。
 パーンドゥはこのマントラをクンティからマードリーにも教えさせて子供を作らせます。マードリーは一回だけこのマントラを使うことにしたのですが、呼び出した神は双子の神のアシュヴィン双神だったので産まれた子供も双子でした。それがナクラとサハデーヴァです。これがパーンダヴァの五兄弟です。
 カウラヴァの百兄弟とパーンダヴァ5人の兄弟は分け隔てなく育てられたものの、唯の人間の子供と神様の子供では基礎能力が違いすぎました。同じ事をしてもパーンダヴァ5兄弟は優秀すぎました。また次男のビーマセーナは子供ながらに怪力の持ち主でカウラヴァ百兄弟に乱暴を働いていました。子供心にカウラヴァ側は理不尽な思いを抱いており、暗い復讐心の萌芽はこの頃から有ったのでしょう。
 長じてカウラヴァの長男ドゥルヨーダナはパーンダヴァの5兄弟を亡き者にしようと画策し、双方に遺恨が残りマハーバーラタ大戦争が勃発することになったのです。ドゥルヨーダナは小っせー奴かも知れませんが、要は子供の頃いじめられっ子だったのにビーマセーナやアルジュナに対抗できるほどの武芸も人望も、そして策略さえも手に入れた、唯の人間なのです。


 クリシュナという人(神様?)についても書いておきます。
 最初に断っておきますがバガヴァッド・ギーターを読んだだけでは、クリシュナは正義を守り、悪を滅ぼし、正法をしっかと維持するために生まれた神の化身のように描かれています。ところがマハーバーラタ全体を読むと、クリシュナという人物は嘘つきで卑怯者です。権謀術数に長けている油断できない憎まれものなのに最高神としてこの世に存在しているのです。
 例えばこのマハーバーラタの大戦争にもルールが有ります。そのルールを決めたのはクリシュナです。そのルールとは

1.毎日、日が落ちると戦闘行為はいっさい中止され、敵味方が友達同士のように自由に往来する。
2.戦いが終わったら、相互に満足すべきこと。再び詐術を用いてはいけない。
3.個人戦においては、同じ条件の者同士で闘い、決してダルマに悖る方法を用いてはいけない。
4.言葉によって戦いを始めた者たちに対しては、言葉によってのみ対戦する。
5.騎兵は騎兵と闘い、決して歩兵を相手にしてはいけない。
 同様に、戦車隊、象隊、歩兵隊は、互いに同じ数で戦うこと。
6.戦闘をしていないが、一騎討をしている者に横あいから武器を持って攻撃しないこと――。
7.他者と交戦中の者、油断した者、背を向けて逃げる者、武器を失った者、鎧を失った者は、決して殺されるべきでない。
8.助命や降伏を申し出た者は殺さないこと。
9.何らかの理由で戦場を離脱した者には攻撃を加えない。
10.そして、非戦闘員や、法螺貝を吹いたり、太鼓をたたいたりしている人々に矢を向けたりしてはならない。

これらのルールを制定しておきながら、自分からそれを破るのがクリシュナです。

 例えばクリシュナは味方のサーテャキがブーリシュラヴァスとの個人戦で負けそうになっているとアルジュナに、横合いから攻撃してサーテャキを助けるようにそそのかすのです。アルジュナは個人戦に横合いから手出しすれば戦士のダルマに反するので否定的ですが、サーテャキが絶体絶命になったときアルジュナはクリシュナの口車に乗せられて矢を放ちブーリシュラヴァスの腕を千切ります。ブーリシュラヴァスはアルジュナに向かって『背後から矢を射るのは戦士の作法ではない。断りもなくわしを攻撃した。キミはこんな卑劣な行為をするような戦士ではない。王家の血が流れている人なら、こんな卑劣な行為は出来ないはずだ。あの見下げ果てたクリシュナに煽動されて、したことにちがいない。』と言います。この段階で既にクリシュナは見下げ果てた人物と敵味方に認識されているようです。

 アルジュナの息子アビマンニュは敵陣に独りで飛び込んで戦ったが、敵の集団戦に敗れて命を落としました。一騎打ちではなく集団暴行なのです。アルジュナは「明日の太陽が沈むまでに、我が息子の死を招いたジャヤドラタを、私は必ず殺す。」と宣言しました。ジャヤドラタ攻撃の戦いは長引き、日暮れになり太陽が沈みそうになっているのにアルジュナはジャヤドラタに直接攻撃ができていません。日が暮れてジャヤドラタ側は歓声を上げます。アルジュナの誓いブラタが果たされない場合、アルジュナは自死するしかないのです。だがその瞬間、クリシュナはアルジュナにこう言ったのです。「シンドゥ王は今、西の地平線を見ているが、実は私が暗くしたのだ。太陽はまだ沈んでいない。さあ、今こそ君の仕事をするのだ。ジャヤドラタが油断している間に。」アルジュナの弓から大矢が飛びジャヤドラタの首と胴体を切り離しました。
 クリシュナの超能力で戦闘の勝敗が決まるのならなにも身内同士で殺し合うことなんかないのにね!
コレ以降、夜間も戦闘が行われるようになりました。

 カウラヴァ、パーンドゥの双方にとっての武術の師、ドローナはカウラヴァ側に属していた。パーンドゥのアルジュナもビーマも誰一人正攻法で負かせるものはいなかった。そこでドローナの最愛の息子のアシュワッターマンが死ねば戦う意味を見失うと考えたクリシュナはアシュワッターマンとドローナを引き離しておいてから、ドローナに聞こえるように『アユワッターマンを殺した』と叫ぶようパーンドゥの面々に提案した。実際にはアシュワッターマンという名の象を殺すので全くの嘘ではない。とはいえ卑怯な戦法です。アルジュナも誰も彼もが嘘つきになって名を汚すことを恐れたが、長男のユディシュティラがその罪を背負うことになった。ユディシュティラの父はヤマ神(閻魔大王)で、嘘をつくことができない人なのだから誰もがユディシュティラの言葉は全て真実だと思っていた。
 そのユディシュティラが『アユワッターマンは死んだ(ただし象の)』と言うのだからドローナは信じるしかなかった。もちろん『ただし象の』という小さな声は聞こえなかった。意気消沈したドローナは、この奇策によって命を奪われた。同時にユディシュティラの神通力も消えてなくなった。

 アルジュナとカルナの直接対決の時、カルナはここ一番という時に過去に行った行為への呪いにより馬車が動かなくなった。これは武器を失ったのと同様なのでアルジュナに「泥濘から脱出するまで戦いを待ってくれ」と交渉した。アルジュナは待とうとしたが、クリシュナがカルナの過去に行った戦士としてのダルマに悖る行為をあげつらい「よくもそんな(待ってくれなどという)都合の良いことが言えたものだ」と言葉により責め立てた。カルナはうなだれてしまいアルジュナの手により葬られた。

 一騎討ちでは腰から下は攻撃しないルールになっているが、クリシュナはビーマが以前「ドゥルヨーダナの腿を砕く」というブラタを立てたことをビーマに思い出させてビーマとドゥルヨーダナとの棍棒で一騎討ちの際にドゥルヨーダナの腿を攻撃させた。

 まぁクリシュナ様は神だからルールに縛られないってことですね。何をしても許される特権階級なのでしょう。

 ギータの主題「殺せ!」に話を戻すと、教祖(ギーターではクリシュナ=ビシュヌ神=絶対神)に親愛(バクティ)という名の絶対服従を強いているように見えます。日本では1995年に「ポアしろ!(魂を救ってやりなさい=魂を肉体から切り離してあげなさい=殺せ)」ということを教祖が言う教団事件がありました。ヨーガ・スートラの非暴力に反するだけでなく、あの事件を思わせる主題には賛同できません。
 さらに言えばインド人にとってはギーターを教科書として「たとえ共倒れになろうと正しいと思ったら殺し合ってでも戦え!」という感覚が骨身にしみているっぽくないですか?そもそも日本人から見たら唯我独尊で尊大な中国人でさえも持て余すのがインド人だというのですからね。

 ついでに書いておきますが、ギーターが大好きでクリシュナ大好きな人も居るでしょう。そういう人にお願いです。世の中にはアンチの人も居るのでキールタンで『ハレクリシュナ』とかが始まるとケッって思っている人も居るということだけ覚えておいてください。


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