見出し画像

新しい常識~その1

現代に生きる日本人にとっての常識は、次のようなものだろう。

宇宙はビックバンから始まって130億年ほど。地球が生まれてからは45億年。人間はアメーバーからサルから進化したもの。世界は常に最先端の科学によって未知の領域へと進んでいるから、科学とはありがたいものだ。西洋医学の進歩によって、どんな病も克服できるだろう。ゆえに、西洋医学ほど頼りになるものはない。お金さえあれば幸せになれる。学校の先生から教わること、テレビニュースで語られる知見は正しい。政府が指導する方向性には従う。まわりのみんながしていることと同じであれば、特に問題はない。人が死んだら、昔から関わりのあるお寺にお願いして、戒名をもらい、葬儀をしてもらえば、親戚に対しての責任を果たせる。死んだのちは、夏のお盆に帰ってくるから、お盆には帰省し、墓は、春と秋にきれいにしておく。結婚式はキリスト教式がかっこよいので、結婚式場で牧師さんをアレンジしてもらう。子供が生まれたら神社に詣でる。七五三は近所の神社で写真を撮る。特定の宗教には関わらないようにする。仕事となれば、日曜祝日がつぶれても、家族の予定がキャンセルになっても仕方がない。何よりも、金さえあれば人生なんとかなる。

もちろん、それぞれに異論もあるだろうし、それは違うという指摘もあるに違いない。しかし、私の論点はそこではない。

上記の「日本人の常識」を考察するなら、その常識なるものの根拠は実に流動的だということである。つまり、土台は何もなく、その時代の、もっとも主流のトレンドに乗っていれば、それが「常識的な生き方」となっているのだ。

江戸時代の日本では、徳川幕府がメディアをコントロールしていたから、それに服することが常識だった。明治維新以降は、政府がその役目を果たして今に至っているが、明治以来、従順なる国民は国家をあげての戦争も「国民の常識」として参加し、命がけで役目を果たしてきた。

■21世紀の覚醒

世界は、21世紀も初めの20年が過ぎたのだが、この国家による大衆の心の掌握は、まことに、うまくいっているように見える。つまり、いまだに国家観はあり、国対国の「オリンピック」が成立しているし、国家間の交渉事で、世界は動いているように見える。もちろんそれ以上に、つまり国家以上の「影の世界政府」があることも明らかになっているのだが、見た目は未だに、国家主導型世界が継続している。

ところが、2019年の終わりころから、いわゆる「新型肺炎の恐怖」という扇動がなされた時代になった。そして、同時に、この二年ほどの間に、ある種の「覚醒運動」も起きてきたことを私は見ている。

それが、「すべての常識は一度疑ってみたほうが良い」という考え方である。

私たちは、このまま政府の言う通り、メディアのいう通りに、従順に従っていけばよいのか?「いや、そうではないだろう。すべて陰謀なのだ!」と考える人々も増えている。そういう人たちは、インターネット情報に影響されている。たしかに、昔はアングラであった情報が、今では日常的に目にできるようになったのは、ネットのおかげである。しかし、その情報も、ある思考に誘導しようとしているものも多く、私たちが自由に選択したように見える情報も、実際は、AI(人工知能)のアルゴリズムによって「人の好みに応じて分配された、管理された情報」であることもまた、明らかになっている。

ゆえに、「ネット情報=新しい常識」という人もまた、実は、ネットによって管理されている。このあたりは、まだ気が付いている人が多いとはいえない。だから、各種、百花斉放な各種陰謀論に踊らされて、一つのカタマリとなって、大声を出している人も多くいる。

「敵もさるもの」である。

ゆえに、今必要なのは、自分が持っている常識と、社会が持っている一定の常識観を、まな板の上にのせて、まずは、客観的、俯瞰的に見ることだ。まさに、常識を「まな板の上の鯉」にするのだ。

自分が生まれてから今に至るまで、「あたりまえであり、常識だ」と考えていることが、どのように、自分にインプットされ、固定化されたのかを検証して見ればよいのだ。

■インプットされたことへの気づき

たとえば、「宇宙は130億年前にビックバンで始まり、それから地球の生命が進化して今のワタシになったのだよ!」という常識が、どのように自分に生じたかを検証するのだ。

そうすると、生まれたての赤ん坊であったことは何も知らなかったが、幼稚園に入る前から見ていた、NHKのEテレで、宇宙がどのようなものか、生き物がどのようなものかということを、「見せられ」ていたことに気が付く。そして、幼稚園から大学院に至るまで、一貫して「進化論教育」を刷り込まれ、宇宙も、社会も、すべて進化し続けるのだという「哲学」が、頭に生じるようになったのだ。親も教師もマスメディアも政府も、すべてそのことを疑うことを忌避するように「指導」してきのである。なぜかというと、その「指導教官」たちもまた、おなじように「指導」されてきたからだ。

ところがである。

もしその「指導」が、なんの根拠もない「嘘」に立脚していたことに気が付いたらどうなるか?それは、まさにカルト宗教にはまっていた人が、ある時、教祖の出鱈目な生き方を知ってショックを受け、その団体を脱退することと同じとなる。かなりの精神的ダメージを受けるが、そんなカルト集団にいるなら、人生を「失ってしまう」のだから、何としてもその呪縛から離れなければならない。それが、理性的な行動である。

ゆえに、もう一度私たちは問わなければならない。

「今、私が持っている常識は、本当に正しいものなのだろうか?」

これが、第一の設問となるのだ。

(この項つづく)






















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?